話題のSF大作『マイボディ・オン・ザ・ムーン』は本当に『プロジェクト・ヘイル・メアリー』や『三体』に比肩するのか?
近年の新人は、ぶっ飛んでいる。矢野アロウの『マイボディ・オン・ザ・ムーン』を読んで、あらためてそう思った。だって作者が、第11回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞した『ホライズン・ゲート 事象の旅人』の刊行が、2023年の12月である。そして本書が、第二長篇になるのだ。もちろんデビュー作は優れたSFだったが、まさか第二長篇でこれほどの物語が出てくるとは思わなかった。上下巻の大作は、質量共に圧倒的。版元の、「『プロジェクト・ヘイル・メアリー』『三体』に比肩する面白さの日本SFが刊行されると言ったら、信じてもらえますか?」という宣伝の言葉に素直に頷いてしまう、超ド級のSFなのである。
この作品には、四人の重要な登場人物がいる。彼らを紹介しながら、ストーリーを記しておこう。まず最初は、楊張敏(ヤン・ヂャンミン)だ。NASAのエンジニアだが、長年、中国共産党のスパイ〈草〉として活動している。ただし、妻のイザベラと幼い娘のエヴリンを愛しており、今の生活が続くと思っていた。そんなヂャンミンだが、久しぶりに母国の中国に帰ったところ、反間諜情報局次長の立案によって拉致され、月面の映像を見せられる。そこには人造の構造物があり、内部では透明なカプセルの中に、座禅を組んだ人間が数十人、閉じ込められていた。しかも、すべて首のない死体だったのだ。
発端が月面で発見された不可解な死体ということで、J・P・ホーガンの名作『星を継ぐもの』を想起した。おそらく作者も意識しているのだろう。とはいえ設定は、まったく違う。破天荒な謎の提示に、ワクワクしながらページを捲ったら、日本のK大学で研究をしている、ジャムというタイ出身の脳神経科学者に、物語の視点が移る。彼女が二人目の重要人物だ。かつてスマトラ沖地震による津波の危機を、海の民であるモーケン族に救われたジャム。だが彼女を捜していた母親は、津波に巻き込まれ行方不明のままだ。それから父親との関係も上手くいっていない。そんなジャムは、自分を日本に呼んだ教授から、実際の患者と向き合うよういわれる。しかしその相手は、連続殺人の罪で収監中にALS(筋萎縮性側索硬化症)になった死刑囚・南井真一だった。
三人目は、アレクサンダー・コーツ。貧しい境遇から身を起こし、実業家として成功していく過程が綴られていく。彼のパートは1980年代であり、インターネットの可能性を見抜くなど、優れた知性の持ち主だ。後に結婚して子供も生まれるが、ある悲劇に襲われることになる。
そして四人目は、左半身に障害を持ち、電動車椅子で移動している、ティーンエイジャーのミントだ。家は金持ちだが、その境遇ゆえの鬱屈がある。VTuberの〈ベティちゃん〉が大好きで、自身もVTuberになりたいが、父親の許可は得られない。ある日、友達以上恋人未満のモーケン族のハルキと共に、訳あって精肉店を訪ねたミントは、そこで死体を発見。さらにその死体の男こそが、〈ベティちゃん〉だと知る。我慢できずに男の機材を持ち帰り、〈ベティちゃん〉に成りすましたミントは、人気を獲得していくのだった。なお死体は、後に首がなくなる。
という四人のストーリーが、順繰りに進行していく。ヂャンミンの妻のイザベラが、実はCIA職員で、その出会いから仕組まれていたことなど、意外な事実が随所で明らかになり、面白く読むことができる。ああ、それが分かっても夫婦仲は良好だし、ヂャンミンはいつの間にか、アメリカと中国の代表の調整役みたいなことになる。月面の構造物は宇宙船らしく、首のない死体は宇宙人らしい。その正体に関する調査はなかなか進まず、一方でアメリカと中国は月面で武装衝突まで起こすのだった。
こうしたヂャンミンの話に、他の三人の話がどう絡んでくるのか、興味は尽きない。ジャムとミントがちょっとした面識があるなど、小さな繋がりはある。だが、コーツの話は80年代であり、他の三人と繋げようがあるのだろうか。
と、疑問を抱きながら読んでいたら、第二部で物語は2030年にジャンプ。そしてコーツが、しばらく物語の中心となる。宇宙人も、そんな使い方をするのかと驚いた。そして本書の方向性が、やっと露わになるのだ。どこまでも拡大していくストーリーは、SFならではの魅力に満ちている。
しかも第三部になると、世界がとんでもないことになり、それぞれの人物が奮闘することになる。特にジャムの行動には、ハラハラドキドキさせられた。また、詳しくは書かないが、四人の周囲の人々も存在感を発揮している。そして“親子”の関係が、さまざまな形で描かれているが、ラストでその意味も明確になる。他にも多数のネタが投入されており、読みごたえは抜群。第二長篇でこれほどの作品を上梓した作者は、どこまで行くのだろう。読者としてリアルタイムで伴走すべき作家が、またひとり増えた。