BTS帰還のドキュメンタリー映画『BTS:THE RETURN』は、本当にオデュッセウスの物語なのか?

 BTS復活のドキュメンタリー映画『BTS:THE RETURN』を監督したバオ・グエンの発言によると、2022年に兵役義務のため一時、活動休止を発表したBTSがARMY(BTSファン)の元に戻ってくるストーリーを、ギリシア神話の英雄オデュッセウスが故郷イタケに帰還するまでの長大な物語に重ねたというが、(着想を得たことは事実だとしても)本作は本当にオデュッセウスの物語なのだろうか?

 まず、両者が帰還するまでの年数からして大分違う。BTSが活動休止を発表した2022年6月から、Netflixで世界配信されたカムバックライブ『BTS THE COMEBACK LIVE | ARIRANG 』をソウルで開催した2026年3月までは、3年9ヶ月。一方、オデュッセウスがイタケに帰還するまでは、トロイア戦争に出征後、同戦争終結までの10年、さらに海神ポセイドンの怒りを買い、地中海を漂流し続ける道のりにプラス10年。合計20年かかっている。

 その間ずっと、イタケでは妻ペネロペイアが待ち続けていた。バオ監督はこのペネロペイアにARMYを重ねる。物理的に20年間待ったわけではないが、ARMYの体感としては20年よりもっと長い間、待ち焦がれる気持ちを内に秘めていたことだろう。あるいは、歴史的な快挙を更新し続けても尚「BTSらしさ」を求めてもがく、BTSメンバーたちの逡巡はさらに長く天文学的数字かもしれない。

 『BTS:THE RETURN』は、配信前から「現代の叙事詩」と銘打たれていたため、素直にオデュッセウス的要素を具体的に期待した。でも実際にドキュメンタリー映画を見てみると、本作のカメラが捉える5thアルバム『ARIRANG』の制作過程に、オデュッセウスの道のりのような紆余曲折があったという大枠(大筋)を除いて、オデュッセウスに関連する描写を画面上に読み取るのは至難の業だ。

 そこで少し視点を変えてみる。オデュッセウスを主人公とする叙事詩『オデュッセイア』を語る形式に目を向けると、これは『ARIRANG』のタイトル曲「SWIM」の構造とよく似ていることがわかる。

大叙事詩を語る手法に基づくタイトル曲「SWIM」

ホメロス『オデュッセイア』(岩波文庫)

 松平千秋訳の岩波文庫版『オデュッセイア』上下を読破するだけでも現代人には骨が折れるが、ホメロス時代のギリシア人は現在のように書籍の形で物語に接していたわけではない。当時はラプソードス(吟唱詩人)と呼ばれる語り部たちが、リズムをつけ、人々に歌って聞かせていた。長大な物語を朗唱する中で、枕詞などの定型句を繰り返し、反復表現によって聞き手に理解を促した。

 語り部たちも1万2千行の詩句からなる物語の一言一句を暗記していたわけではなく、彼らは即興的な手法で句から句を引き出し、グルーヴ感ある語りを成立させていた。大叙事詩を語るためのこうした特徴は、現代のポピュラー音楽にも通じるところがある。

 大ヒット曲のフレーズは大抵、一度耳にしたら瞬時にリスナーの記憶に刷り込まれ、そのフレーズは曲の中で何度も反復されるもので、タイトル曲「SWIM」もまた反復を駆使する、強い中毒性がある楽曲だ。曲調はかなりシンプルで涼やかなトーンなのに、JungKookが最初に声を吹き込むフレーズ“Swim”は不思議とリスナーの頭にこびりつく。

 『BTS:THE RETURN』でリーダーRMは、この冒頭フレーズが「泳げ」という命令でもおすすめでもなく、ただ泳いでいる状態を描写していると説明していた。フラットな意味だからこそ、リスナーの心にはより浸透しやすくなる。

 さらに、歌って聞かせていた語り部たちの韻律(リズム)がグルーヴ感をうんでいたように、RM、SUGA 、j-hopeによるラップラインがグルーヴィーに躍動し、楽曲全体を支える。そこにJin、Jimin 、V、JungKookが歌う反復フレーズ“Swim”がボーカルメロディとして乗っかり、フレーズからフレーズへ滑らかに展開させている。図らずも、この曲自体が大叙事詩を語る構造(手法)に基づいているわけで、いたってシンプルなループミュージックがBTS復活に相応しいダイナミックな曲に仕上がった。

 『BTS:THE RETURN』はメンバー7人全員で「SWIM」を録音する収録場面で締めくくられている。ドキュメンタリー映像の構造(構成)上、これをラストに配置することで視聴者の記憶に強く訴える。収録場面を見た視聴者はただ泳ぎ続けるように反復されるフレーズに身を委ね、作品を見終わった後もそのフレーズが頭の中でループするようになる。

 では、本作冒頭にはどんな場面が配置されていたか? 「A NETFLIX DOCUMENTARY」という字幕がフェードインする黒み画面から聞こえてきたのは、「ハロー!」という高音の美声だった。美声の持ち主はJinだ。

 本作は『ARIRANG』を制作するロサンゼルスに、Jinが一人遅れて到着する場面から始まる。そこでも彼は「ハロー!」と反復していた。「SWIM」収録映像の余韻と対をなす、反復のサンドイッチ構造が神懸かる。本作中盤にはちょうど「SWIM」のレコーディング場面が置かれ、マイクに向かって反復フレーズを最初に吹き込むのもJinだった。

女神アテネも味方する神話的長男Jin

“I just wanna dive”

 コクのあるリッチな美声を吹き込むJinが、余韻たっぷりに「SWIM」をアウトロへと導いた。同曲ミュージックビデオでは、メンバー7人が乗船した大船が大海原を進むが、アウトロに流れるフレーズを口にするJinの背景では、陽光を反射する海面がきらきら輝く。韓国ではこの輝きのことを「ユンスル」と呼ぶ。韓国語でしか表現できない、海と輝きのマジカルワードだ。

 そうしてJinの美声が船上から大海原へ想像力を掻き立て、リスナーをたちまち虜にする。まさに漂流中のオデュッセウスが遭遇した、海の魔女セイレーンの歌声のように…。

 半人半獣のセイレーンは美しい歌声によって多くの船乗りたちを魅了し、惑わせた。オデュッセウスが魔女の歌声の虜にならないよう、アドバイスをする女神キルケは「セイレンたちは草原に坐って、すき通るような声で歌い、人の心を魅惑する」と説明した(第12歌)。

 どれほど美しい歌声なのか? 船を漕ぐ部下たちには蜜蝋で耳栓をして、自分は帆柱に手足を縛らせて防備したオデュッセウスによると、それは「蜜の如く甘い声」であり、聞きたくて聞きたくてたまらない美声らしい。

 ギリシア神話に登場する他の英雄の例もある。イアーソンを乗せた船が地中海に入ったところで、セイレーンの島を通った。その歌声について「美しい音色は高くひくく銀のすずのように、波のない海面をわたってきます」(高津春繁・高津久美子訳『ギリシア神話』)と記述がある。これはそのままJinの伸びやかな高音の魅力を読み解く説明文にもなる。

 セイレーンの元を無事に通過できるよう、イアーソンは助っ人を呼ぶ。ラテン名オルフェウスで有名なオルペウスだ。彼はギリシア神話を代表する名歌手で、商業の神ヘルメスが発明したといわれる竪琴(リラ)の名演奏者でもあった。オルペウスは船首に座り、セイレーンの美声に対抗する名演の力で、イアーソンたちを鼓舞した。ギリシア神話世界版の紅白歌合戦だ。

 オルペウスの歌声についても「彼の歌に、川はさかなを空中におどりあがらせたまま、流れをとめてききいり」と、何とも神話らしい紹介文がある。でもそう言われるとなるほど、Jinの歌声はオルペウス的でもある。神話に力を得た妄想はどんどんたくましくなる。

 Jinのソロ曲「Super Tuna」のミュージックビデオでは、エアーで釣り上げたCG合成魚が画面上手からピチピチと盛んにフレームインしていた。鮮魚ではない合成魚でさえ、Jinの歌声には思わずピチピチ反応してしまう。擬人化された川や海そのものが彼の歌声に聞き入るかはわからないが、川が「空中におどりあがらせたまま」にした「さかな」が再び動き始めた瞬間、それは「Super Tuna」のMV画面上に合成魚として姿を変えて出現したのではないか。

 だとするなら、神話的な魚使いでもあるJINならきっとオデュッセウスとは対照的に、海神ポセイドンからも愛される存在になり得るかもしれない。彼の歌声は、セイレーン的美声であり、なおかつオルペウス的躍動感に溢れている。BTSの長男Jinは何とも複合的な、神話的キャラクター性を備えている。

 2022年12月、メンバーの中で最初の入隊者だったJinは、2024年6月最初の除隊者として、自分以外のメンバーが不在であるBTSの留守番役を担った。これだけ世界的なグループを一人で支えていなければならない。Netflixで2025年に配信された出演番組『キアンの破天荒ゲストハウス』では、キアン84から「世界の精神的支柱」と言われたこともあるJinだが、流石に相当心細く孤独で、想像できないほどのプレッシャーがあっただろう。他のメンバーの帰りを待ったJinこそが、実は真のペネロペイアではなかったか?

 ペネロペイアは、20年ぶりに帰還したオデュッセウスを、なかなか夫だと認めようとしなかった。第23歌、彼女は長大な叙事詩のエンドロールがそろそろ流れようというところで、やっと夫だと認める。先に気づいたのは息子のテレマコスだった。イタケに帰還した当初、オデュッセウスはみすぼらしい姿で、もちろん父とは知らないテレマコスはオデュッセウスを客人として迎えた。そこでなにかとオデュッセウスをサポートしてきた女神アテネが「黄金の杖」を一振(第16歌)。オデュッセウスを綺麗な姿に変身させ、テレマコスにネタバラシをする。まさに神業である。

 2017年、BTSによるワールドツアー『2017 BTS LIVE TRILOGY EPISODE Ⅲ THE WINGS TOUR』中、Jinにも神業としかいいようがない変化があった。公演のスタートとファイナルである2月と12月のライブで、明らかに高音の仕上りが違い、神懸かるフレージングがきらめいていた。たった10ヶ月で彼の美声はどんな神業的訓練を受けたのか? 

 『ARIRANG』ラストトラック「Into the sun」担当フレーズ“Never too far behind”を歌う、Jinの最高音は、韓国第二の国家「アリラン」をサンプリングした1stトラック「Body to Body」を上回る高揚感の中で、美声の極みに達している。2017年のツアー中にしろ、今回の復活アルバム制作中にしろ、実はJinにも女神アテネが味方して「黄金の杖」を一振りしたのかもしれない。

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