千街晶之のミステリ新旧対比書評 第14回: ハリイ・ケメルマン『九マイルは遠すぎる』× 森晶麿『虚池空白の自由律な事件簿』

ミステリ史に残る、名探偵からの挑戦

ハリイ・ケメルマン『九マイルは遠すぎる』(早川書房)

 事件現場に足を運ぶことなく、情報だけをもとに真相を推理するタイプの「安楽椅子探偵」はミステリ史に大勢いるが、その究極の進化形と言えそうなのが、アメリカの作家ハリイ・ケメルマンが生んだニッキイ・ウェルト教授である。

 著者が1947年、《エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン》の短篇小説コンテストに応募した「九マイルは遠すぎる」は、入選を果たしたのみならず、安楽椅子探偵ものの歴史に残る名短篇となった。この作品を含む8篇を収録した短篇集『九マイルは遠すぎる』は本国では1967年に刊行され、日本では永井淳・深町眞理子訳で1971年にハヤカワ・ミステリから刊行、現在はハヤカワ・ミステリ文庫で読める。

「九マイルは遠すぎる」が初登場となるニッキイ・ウェルトは、語り手の「わたし」に次のように宣告する。

「たとえば十語ないし十二語からなる一つの文章を作ってみたまえ」「そうしたら、きみがその文章を考えたときにはまったく思いもかけなかった一連の論理的な推論を引きだしてお目にかけよう」(永井淳訳、以下同じ)

 ミステリ史上、これほど印象的な名探偵からの挑戦もなかなかない。それは永井淳の訳文のおかげでもある。最近の翻訳家なら「作ってみたまえ」「お目にかけよう」と訳すことはあまりないと思うが、やたらと恰好いいのである。古典的な海外ミステリが読みやすい新訳で出る流れは基本的に歓迎したいけれども、「九マイルは遠すぎる」についてはこの訳文を残してほしい。

 この挑戦に対し、「わたし」は「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、まして雨の中となるとなおさらだ」(A nine mile walk is no joke, especially in the rain)という11語からなる文章を作ってみせる。それに対しウェルトは、「わたし」が思ってもみなかったような推論を繰り広げ、しかもある犯罪の存在を嗅ぎあてるのだった。物騒な要素など何もなさそうな11語と、そこから導き出される推論とのギャップが強烈で、名作として現在まで読み継がれているだけのことはある。

 短篇集『九マイルは遠すぎる』の序文によると、著者が教師をしていた頃、実際に教室の卓上の新聞にあった「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない。まして雨の中となるとなおさらだ」という文章を黒板に記し、そこからどんな推論を引き出せるかを生徒に答えさせようとしたのだという。ところが、ケメルマン自身がこの問題にはまってしまい、自信のある解答を小説に仕上げるまでになんと14年かかったというのだ。驚くべき根気としか言いようがないけれども、その後のマイペースな創作姿勢にも瞠目させられる。『九マイルは遠すぎる』にはウェルトが安楽椅子探偵として活躍する8篇が収録されているが、最後の作品「梯子の上の男」が発表されたのは1967年。20年を費やして8篇を丁寧に仕上げたわけである。

日本人作家がオマージュを捧げた作品群

森晶麿『虚池空白の自由律な事件簿』(集英社)

 ところで、「九マイルは遠すぎる」という短篇は本国アメリカより、日本での知名度や人気のほうが高いかも知れない。というのも、日本人作家がこの作品にオマージュを捧げた作例が尋常ではなく多いからだ。例えば、松尾由美「九か月では遅すぎる」(『バルーン・タウンの手毬唄』所収、創元推理文庫)、北森鴻「九枚目は多すぎる」(『なぜ絵版師に頼まなかったのか』所収、光文社文庫)、有栖川有栖「四分間では短すぎる」(『江神二郎の洞察』所収、創元推理文庫)、米澤穂信「心あたりのある者は」(『遠回りする雛』所収、角川文庫)、青崎有吾「十円玉が少なすぎる」(『ノッキンオン・ロックドドア』所収、徳間文庫)、乾くるみ「九百十七円は高すぎる」(『ハートフル・ラブ』所収、文春文庫)、阿津川辰海「占いの館へおいで」(『午後のチャイムが鳴るまでは』所収、実業之日本社)等々、枚挙に遑がない。

 そしてとうとう、1冊まるまる「九マイルは遠すぎる」オマージュの趣向で統一した連作短篇集まで登場するに至った。『黒猫の遊歩あるいは美学講義』で第1回アガサ・クリスティー賞を受賞してデビューした森晶麿の『虚池空白の自由律な事件簿』である。2024年、全6話が《小説すばる》に連載され、2025年に集英社から単行本として刊行された。

 連作を通しての語り手は俳句雑誌編集者の古戸馬(ことば)。彼は雑誌の特集のため、大学時代からの友人で「自由律俳句の伝道師」と言われる虚池空白(うろいけくじら)とともに「野良句」を集めている。

 いきなり野良句という謎の言葉が出てきて面食らったひとも多いと思うが、路上に落ちている手袋やマスクを野良手袋だの野良マスクだのと呼ぶように、世の中の落書きや看板の文字などが俳句になっているものを野良句と呼ぼうというわけだ。とはいえ、5・7・5の定型句を野良から探すのは容易ではないので、定型にこだわらない自由律俳句ならば見つかるだろうという発想である。

 第1話「月消し帰る」では、二人が行きつけのバーを訪れたところ、卓上に「柱に当たって月消し帰る」と記された紙ナプキンを見つける。誰が何のために書いたのか、そして「柱に当たって月消し帰る」とはどういう意味なのか。俳人だけあって言葉へのこだわりが尋常ではない虚池は、「俳句とは規則性のあるゲームだ。たとえそれが自由律俳句でも変わらない」という立場から、隠喩も含むあらゆる可能性を吟味し尽くそうとする。「九マイルは遠すぎる」オマージュで、隠喩の可能性まで踏み込んだ作例はちょっと思い浮かばない。

 他の収録作でも、出現した野良句を前に、虚池と古戸馬が解釈合戦を繰り広げる。中でも白眉は、虚池の大学の先輩にあたるミステリ作家が死ぬ前に病室に残した「金拾お我より見つけろ白は黒」という書き置きの意味を推理する第3話「白は黒」で、最後に明かされる真相と、書き置きに秘められた故人の意図が衝撃的だ。連作短篇集としても、主人公コンビに関する謎が提示される第6話「リンゴは海に」で締めくくる構成が美しい。

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