杉江松恋の新鋭作家ハンティング 土形亜理『みずうみの満ちるまで』が描く、哀しき未来世界
悲しみが心に満ちる。
静かに、穏やかに見える湖は、実は滾々と湧き出している水で満たされ続けている。水面のみを見つめていてもしっかりとは感じられないものを確かめるために、作者は湖に自身を浸した。土形亜理『みずうみの満ちるまで』(早川書房)はそういう小説である。
本作は第13回ハヤカワSFコンテスト特別賞受賞作である。大賞はなく、優秀賞に関元聡『摂氏千度、五万気圧』(早川書房)が選ばれた。両受賞作には奇しくも、気候変動によって人類の存在が脅かされた後の未来を描いているという共通点がある。
『みずうみの満ちるまで』の舞台がどのくらい先のことなのかは、私には判断がつかない。大規模な気候変動だけではなく戦争によって人類は幾度かの危機を迎えたが、いまだ命脈は尽きずに生き延びているという設定だ。ただし、平和であった時代と同じような生活を甘受できるのはごく僅かな富裕層のみで、多くの人々は難民となり、僅かな肉を我がものにするために殺し合うような苦境にある。
主人公はエルムと呼ばれている。本名ではない。彼女がいるヘヴンズガーデンでは皆が元の名を捨て、自身と由来のある動植物などを通称としているのだ。エルムとはつまり楡の木である。
ヘヴンズガーデンは、富裕層のための施設である。ここに寄付をした者のみを受け入れている。ここで四週間の穏やかで快楽に満ちた日々を送った後に、彼らは旅立つ。他では得られなくなった、生物個体としての死を迎えるのである。そのためのコーディネーター、つまりお世話役をエルムは務めているのである。元はこの時代のおおかたの仕事がそうであるように、ロボットが任に就いていた。五年前から人間であるエルムがその役を務めるようになったのだ。
ヘヴンズガーデンの設立者は、元自治政府長官だったが、現在は三毛猫の姿で暮らしている。そのことは施設の中にいる者だけが共有している秘密で、彼はアバターを使用して外部と接触しているため、多くの人はそれに気づいていない。ヘヴンズガーデンを作るにあたって、三毛猫は二つの原則を作った。第一に、ゲストの死は強いられるものであってはならない。第二に、ゲストの死は幸せの先に選び取られるものでなくてはならない。だが苦しみに満ちた難民ではなく、何不自由なく暮らす人々がなぜ死を求めるのか。この逆説的な問いに答えるためには、他の富裕層がどのような生を送っているかを知る必要がある。
この時代、地球上の多くの土地は灼熱地獄と化しているが、北緯四十五度以上には、科学の力を駆使して地表でかろうじて人が生きていける地域がある。これがグリーンフィールズで、ヘブンズガーデンもその中にある。施設から眺める景色は美しい自然に包まれている。澄んだ水を讃える湖もその中には含まれる。それ以外の地域には、テック産業が建設した巨大タワー都市があり、人々はその中に閉じこもって暮らしている。もちろん中に入れるのは富める者だけだ。
こうした限られた暮らしを送るうちに、富裕層の中には物質としての肉体を捨て、オルターワールドと呼ばれる仮想空間に生きることを選ぶ者が現われるようになった。電子信号となって、永遠の生を手に入れるのだ。それは大きな潮流になったが、逆に自由意志としての死を選ぶ者もあらわれた。彼らを受け入れるのが安楽死施設、ヘヴンズガーデンなのである。幸せな四週間を送った後、エルムの注射によって入居者は安楽死を迎える。
本作は群像小説であり、エルムはコーディネーターとしてさまざまな人々と出会う。彼らはただ浮薄な幸せを生きてきたわけではなく、それぞれにやはり哀しみを背負っている。たとえばローズさんと呼ばれる女性だ。彼女がバラの花を自らの名乗りにしているのは、それがかつてのパートナーが嫌った花だからだという。その女性、アメリアは人為的に手を加えられたものを忌避していた。ゆえに自然をそのまま残そうと環境保護運動に尽力したし、ローズさんはジャーナリストとして真実を報道して彼女を助けた。しかしその結果、追い求めていた理想は思い浮かべていたのとはまったく違う場所に辿り着いてしまったのである。世界を引き裂いて絶望の淵へと追いやろうとする動きは止められなかった。
ローズさんは語る。彼女たちが大学を出るころには「未来を守る闘いが、崩れゆく現在を押しとどめる闘いに変わりつつあった」と。それがいつであるのか、私には断言できない。もしかすると遠い先のことではなく、すぐそこに迫っている未来ではないのだろうか。そうではないことを祈りたいとは思うが。
ヘヴンズガーデンの入居者たちの過去をエルムが知ることが、この未来世界の成り立ちへの理解へとつながっていく仕掛けである。エルムにはまた、元難民のリンクス(オオヤマネコ)、ヘヴンズガーデンで庭師として働くアッシュといった友人がいる。
ヘヴンズガーデンの入居者たちより彼らは下の世代だ。ある入居者はエルムに「自分たちが壊した大地を生きねばならなくなった世代」の言葉を「胸に刻む機会」を得たいと請われて本音を語る。「どうして動いてくれなかったのでしょう」「あなたたちがすこしでも努力していたら、たとえ世界を変えられなくても、次の世代はそれにならい、変える努力を続けたことでしょう」。しかし、こうも言う。「わたしは怒ってないんです。もしわたしがあなたたちと同じ時代に生きていたら、きっとあなたたちと同じように生きたのでしょう」と。
エルムやリンクス、アッシュたちの世代が共有しているのは怒りの感情ではなく、絶望だ。リンクスと連れ立って湖岸の砂浜を辿っているとき、波打ち際の方が歩きやすいと勧められて「そこじゃあ、わたしの足跡が残っちゃう」「いやなの、自分の痕跡を残すのが、わたしの痕跡を見てほしくない」とエルムは答える。
生きるということは哀しみが心に漲っていくことだとの諦念がある。ちょうどヘヴンズガーデンから見える湖が冷たい水を湛えているように。この癒されることのない空虚、そして世界が壊されてしまったと感じる者の胸に去来するのはどういう痛みかを、読者と共有する言葉で紡ぐために本作は書かれている。
巻末に選評が掲載されている。それによれば、おおむね高評価だが、結末が多義的な解釈を許すものであったことが減点対象となったようである。「わかりにくい書き方が、〈物語の力〉を殺いでいる」(小川一水)という評価には納得させられる。だが一方で、結末を迎える前に作者は書くべきことを書き切ってしまったのかもしれないとも思う。エルムたちを包み込む哀しみこそが小説の主題だからだ。そういう、物語としての帰結点がない小説はあってもいい。
これはおそらく、土形亜理という作家の心の、ぼんやりとした縁を表した小説なのだと思う。ここからさらに絞り込まれ、明確な輪郭が実線として書かれるようになったとき、この作者は変貌を遂げるはずだ。そこに浮かび上がるものが何であるか、ぜひ見てみたい。この透明度を保ったまま、何かを書いてくれるはずだ。