北村匠海主演『愚か者の身分』原作から強調されたポイントは? 小説と映画を比較して見えてくる“愚か者”の意味

 公開中の映画『愚か者の身分』が大きな話題を集めている。本作は大藪春彦新人賞を受賞した西尾潤氏の同名小説(徳間書店刊)が原作。新宿・歌舞伎町を舞台に愛を知らずに育ち、裏社会に身を落とした若者3人が闇ビジネスから足を洗って抜け出そうとする逃走サスペンスだ。主人公のタクヤを北村匠海、タクヤとともに戸籍売買ビジネスに手を染めるマモルを林裕太、そしてタクヤの兄貴分的存在・梶谷を綾野剛が演じ、今年9月に行われた釜山国際映画祭では3人が最優秀俳優賞を受賞するなど演技力の高さが国際的にも評価されている。

原作と映画の違い

 全5章から構成される原作は、映画では山下美月が演じた“パパ活女子”、矢本悠馬が演じた“戸籍を売った男”、そして未登場だった“探偵”にも1章が割り当てられ、読者はそれぞれの視点から物語を読み進めることになる。しかし映画では、マモル、タクヤ、梶谷の3人に焦点を絞り、複雑な時系列を整理。この変更によって作品のテーマは「命のリレー」へとシフト。彼らが抱える闇と希望、他者のために犠牲を払う生き方が一つの流れとして描かれることで、観客が感情の動きを途切れなく追えるよう再構築されているのだ。

 さらに、作中では永田琴監督による小説とは異なる解や、追加された場面が作品の魅力を一層際立たせている。

 たとえば、鯵の煮つけを食べるシーンで、タクヤが何かの拍子にマモルの肩に触れようとした瞬間、マモルは反射的ビクッと身体を強張らせ、怯えながら自分の頭を防御する行動をとる。腕にはタバコを押し付けられたような跡が無数に見え、この一瞬だけでマモルが親から虐待を受けていた背景と、タクヤがマモルを守りたいと想う心が伝わってくる。

 また、タクヤの過去回想で描かれた実弟の葬儀シーンの演出は実に見事だった。梶谷が焼香をあげた後の引きの映像で、梶谷以外の参列者がいないことがわかり、親族や友人がいないタクヤの孤独な境遇や、梶谷だけが近しい存在であったことがさりげなく強調。そして、終盤では梶谷が組織への忠誠か弟分の命かで激しく葛藤するが、弟分のマモルを逃がしたいタクヤの想いに、タクヤの兄貴分である自分を重ねたことが動機として肉付けされている。

 永田監督は「若者の貧困に興味を持った」と語っているが、そこに至る背景や他者を思う心を前面に押し出したことで、原作の冷たい空気感を残しつつも、観客は「余韻」に浸ることができたのではないだろうか。

タイトルに込められた“愚か者”の意味


 『愚か者の身分』というタイトルには、社会の底辺に生きる人々へのまなざしが込められている。原作では、“愚か者”とは希望を失い、ただ生き延びるだけの存在として描かれたが、映画ではその愚かさが“人間らしさ”として浮かび上がる。誤りながらも、誰かを守ろうとすること。裏切られても、なお他者に手を差し伸べようとすること。その不器用な行為こそが、人として生きる証であることを永田監督は淡々と見つめる。

 映画の視点は決して闇社会を美化していない。人の弱さと優しさが交わるこの物語は、目を覆いたくなる、ある凄惨な映像が“目玉”ではあるが、観る人それぞれの心に小さな温もりを残したはずだ。原作を読んでから映画を観ることで、より重層的に“愚か者”の意味を捉えることができるはずだ。

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