『きみはメタルギアソリッドV: ファントムペインをプレイする』ジャミル・ジャン・コチャイに聞く、小説とゲームの関係

 2025年2月27日、翻訳短篇集『きみはメタルギアソリッドV: ファントムペインをプレイする』(ジャミル・ジャン・コチャイ著)が河出書房新社より刊行された。本記事では、日本版の翻訳を務めた矢倉喬士が、『メタルギアソリッドV』という実在するゲームを題材にアフガニスタン移民の歴史と現在を巧みに描き出したコチャイ氏に、小説とゲームの関係についてインタビューを行った。

ビデオゲームから学んだ「喪失の感覚」

ジャミル・ジャン・コチャイ氏

──日本での『きみはメタルギアソリッドV: ファントムペインをプレイする』の発売、おめでとうございます。ご自身では日本版の出版をどのように感じていらっしゃいますか?

コチャイ:ありがとうございます。とても光栄に思います。自分の作品が日本語に訳されたのは今回が初めてで、自分の物語が新たな読者のもとに届くのは胸躍る経験ですし、話題にしてもらえるのはうれしいですね。

──短篇集の冒頭に収録された「きみはメタルギアソリッドV: ファントムペインをプレイする」は、あなたの代表作になりましたね。

コチャイ:あれは私の「ラッキーストーリー」ですよ! 「きみはメタルギアソリッドV: ファントムペインをプレイする」の執筆は、とても珍しく、素晴らしい経験でした。指先から言葉が溢れ出るみたいで。まるで物語の方がひとりでに書き始めて、もう既に最後まで書き終わっているのを私は追いかけて発見するだけ、といった感じでした。初稿は2、3週のうちに仕上がったのですが、これは私からしてみれば信じられないくらい速いペースなんです。忘れもしませんが、エージェントに初稿を送ったときに、『ニューヨーカー』に投稿してみようと提案されたんですね。それはちょっと高望みし過ぎだろうと思ったんですが、数週間後に『ニューヨーカー』のフィクション部門編集者のデボラ・トレイスマンから連絡が来て、うちで掲載したいと言ってくれたんです。夢が叶いました。そこから、あの短篇はあちこちのアンソロジーに入れてもらって、いくつかの賞もいただきました。私の書いた短篇のなかで一番読まれている作品でしょうね。

──「きみはメタルギアソリッド~」の主人公である「きみ」と、著者のコチャイさんとのあいだにはどの程度の関係があるのでしょうか?

コチャイ:あれはかなりの程度で自伝的な物語です。私の作品の多くは現実に近い設定から始まって、それが行きたい方向にどこでも行かせるという感じです。この短篇の場合は、キャラクターたちは私の家族の誰かに基づいていて、主人公とその父親の関係(あるいは主人公とゲームの関係)については私自身の人生経験をいくらか反映しています。私の叔父はソ連によるアフガニスタン侵攻で殺されています。それから何十年が経っても、私の一族には彼の物語がとり憑いていますし、私たちがアフガニスタンを離れることになった経緯の核心部分には彼がいます。

──作品の着想源についてもお伺いしたいです。あなたは以前のインタビューにて、『メタルギアソリッドV : ザ・ファントムペイン』(以下、『MGSV』)に登場するアフガニスタンのマップを見たときに、記憶の中のアフガニスタンを思い出して、このままマップの南へ向かって故郷のロガールまで行けたらいいのにと兄弟で話し合ったとおっしゃっていましたね。それと同時に、ゲーム内のアフガニスタンは実際の北カブール地方よりも乾燥していて植生が貧しいともおっしゃっていました。確かに、あなたの短篇集を読むと、広大な小麦畑やリンゴ園、クワの木やスズカケの木などの豊かな植物の描写が印象に残って、アフガニスタンの植生の豊かさが感じられます。ゲームのアフガニスタンと実際のアフガニスタンとの類似点と相違点についてお聞かせいただけますか?

コチャイ:『MGSV』のアフガニスタンの描写は驚くほど精確で、賞賛に値すると思っています。山あいの村。乾燥した丘。砂嵐。パシュトー語。動物たち。その一方で、アフガニスタンの生態系の多様性をもう少しゲーム内で見られたらよかったとも思います。緑豊かな渓谷。リンゴ園。黄金色に輝く小麦の丘。森。渓流。こういった要素もアフガニスタン的なので。ゲームの舞台が両親の故郷のロガールの村だったら、とも思いましたが、もし実際にゲーム内に登場していたら、それはそれでがっかりしていたかもしれません(笑)。

──私は翻訳作業中に、短篇集に登場する人物たちは名前が同じであれば基本的に同じ人物であると聞かされていましたから、「ガルブディンを待ちながら」に登場する幼い三兄弟が成長して「きみはメタルギアソリッドV: ファントムペインをプレイする」の三兄弟になるというイメージで翻訳していました。あなたのデビュー長編である『ロガールでの99夜』(未邦訳)もまた、例の三兄弟(マルワンド、グウォラ、ミルワイス)の物語で、ワタク叔父さんとガルブディンおじさんも登場します。あなたの創作世界では、同じ名前の人物は基本的に同じ人物だと思っていいのでしょうか?

コチャイ:はい、基本的にそう思ってもらって結構です。同じキャラクターのことを何度も考えるのが好きなんです。私の作品は家族を軸にしていて、私自身の家族や記憶から随分たくさんの要素を持ってきています。マルワンド、グウォラ、ミルワイスの三兄弟は、私と兄弟たちをある程度反映していますが、それと同時に、自伝的物語の限界を超えようともしています。たとえば、一つの家族のあいだにあまりにも多くのバージョンの物語が存在しうることにはいつも驚かされます。私の父と祖母と伯母たちはソ連侵攻時代に一つの屋敷に住んでいました。彼らは多かれ少なかれ、同じ出来事を経験し、同じ亡霊にとり憑かれているはずです。それなのに、彼らの語る真実の物語は途方もなく異なっています。私に言えるのは、歴史的なリアリティー(あるいは身体的なリアリティー)というものは複数同時に存在しうる、ということだけです。

──アメリカでのオリジナル版では、「巡礼者ホタクの呪い」が表題作でしたね。二人称で書かれた作品で、謎の人物がアフガニスタン系の移民一家を監視する奇妙な話です。あなたは作家のカラン・マハジャンとのインタビューのなかで、初めて白人の視点から書いた物語だと述べていらっしゃいました。なるほどと思う一方で、テクストには謎の監視者の人種やジェンダーを特定できる描写はなかったように思います。日本の読者としては、「あなた」が白人であると言われると疎外感を覚えることになるのですが、この作品における二人称の採用の意図についてもう少し聞かせていただけますでしょうか?

コチャイ:はい、ある意味で二人称視点というのは、意図的に疎外感を与える手法なんです。仮に小説の理論家であるジョン・ガードナーのように、フィクションの物語の主たる目的は、読者が物語の夢のなかに完全に没入して我を忘れることであるという主張に従うならば、二人称視点の語りは完全にその逆を行ってしまいます。というのも、語り手が読者を直接に名指すことによって、読者は読者としてのポジションを終始思い出すはめになりますからね。とはいえ、この短篇では二人称が適していると感じました。この作品は対テロ戦争や監視、政府の過干渉や人種主義についての話で、同時に「覗き見趣味」の話でもあります。ここで私が深く追究したかったのは、「窃視者(覗き見る者)」としての読者の存在と、「キャラクターについて知りたい」という読者の欲望についてです。この場合の読者は作者にも置き換えられます。

 文学とは「共感」を育むものだ、なんて話を耳にすることがあります。読者は自分とは異なる人々の生活を疑似体験して知ることができるから、というわけですね。しかし、長きにわたる植民地主義の歴史や、それが人類学やその他の人文科学と結びついてきた経緯を振り返ると、ある種の人々を「知りたい」という欲望は効率的に「支配したい」という欲望と同根でもあり、フィクション内のキャラクターと読者の関係は想定されているよりもずっと陰湿で不気味なものでありうると私は思います。

 「巡礼者ホタクの呪い」で探求したかったのはこれです。「あなた」が、あるいは読者が抱えている、知りたい、見たい、監視したい、支配したいという欲望です。そしてアメリカの政治状況において、知のシステムを通して見て、監視して、支配する立場にあるのは、それがどれだけ抽象的な意味でしかないとしても白人男性なんです。

 私のフィクション作品では、読者の認識や価値観に挑戦することは、楽しんでもらったり、「魅了する」ことと同じくらい大切です。究極的にはそれがこの話を二人称で書いた理由ですね。

──「きみはメタルギアソリッド~」は明らかにビデオゲームの話でしたが、「巡礼者ホタクの呪い」もまたビデオゲームと深く関係しているように思います。この短篇を読むと、あなたが以前に『ファイナルファンタジー7』について書いたエッセイを思い出します。あのエッセイであなたは、エアリスを失った後のクラウドが生命の危機に瀕しながら本当の自分のアイデンティティに向き合う場面について、「エアリスを失ったのに、クラウドを失うなんて考えられない、今はダメだ、もう少しで救われそうなのに」と書いていらっしゃいました。「巡礼者ホタクの呪い」でも、「あなた」がもうすぐ監視を終えなくてはいけない場面で、「今はダメだ (Not now. Not when~)」というまったく同じフレーズが登場します。あなたがビデオゲームから学んだのは深い喪失の感覚であり、それを執筆に活かしたのがこの作品であると言えるでしょうか?

コチャイ:はい、まったくその通りです。ビデオゲームは私が物語を理解し、創作するうえで決定的に重要な役割を果たしてきました。喪失の感覚については特にそうだと言えます。ゲームではとても長い時間をキャラクターたちと過ごし、彼らを育て、装備を強化し、一緒に戦って旅をします。ときには何十時間も一緒にいるうちに、そのゲームが良いものであればあるほど、不思議なことにキャラクターたちを愛するようになっていきます。だからこそエアリスを失った衝撃はとてつもなく、忘れがたいものになりました。本当に心が張り裂けるようでした。

 そして今や、ビデオゲームは私にとって過ぎ去った子ども時代の体験と深く結びついています。ですから、ビデオゲームをどう認識し、どう描くかには、常にノスタルジーの層が加わります。私はファイナルファンタジーに熱中したあの幼い日々を懐かしく思っていて、その思いが私の創作にも自然と流れ込んでいるんです。

──『FF7』のエアリスの死は、『ライオンキング』のムファサなど他のフィクションにおける死よりも特別なものだとお書きになっていましたね。現在も続いている『FF7』リメイク三部作のプロジェクトでは、エアリスが死ぬ世界と生存する世界がパラレルに進んでいるようです。これによって、エアリスの死を特別なものと考えるあなたの創作観に何か違いが出てきたりするのでしょうか?

コチャイ:全体として、『FF7』のリメイク版はとても気に入っています。ゲームのプレイ感覚や追加要素の作り込みも素晴らしいですし、作品の中で最も重要で記憶に残る瞬間を、あえて違う形にしようとする意図も理解できます。ですが私の考えでは、それは物語としてうまく機能していないだけでなく、あの圧倒的に美しく、胸を引き裂くような瞬間をプレイヤーに届けるために、あえて大きなリスクを負ったオリジナル版に対して失礼でもあると思います。リメイク版の制作者たちは、喪失の感覚は喚起したいけれども、オリジナル版のように真正面から体現したくはないという、両方を取ろうとしているように感じられます。その点は正直、残念でした。

小島監督の作品から受けた大きな影響

──あなたとゲームの関係についてさらにお尋ねします。あなたはJ・ロバートソンとカルメン・マリア・マチャドが編集した『クリティカルヒッツ──ビデオゲームをプレイする作家たち』というエッセイ集に寄稿され、高校生時代にプレイした『コール・オブ・デューティー』シリーズの衝撃について書いていましたね。それについて日本の読者にも教えていただけますか?

コチャイ:『コール・オブ・デューティー: モダン・ウォーフェア』は、私が高校生のときにはアメリカで一大文化現象のようになっていました。知り合いの男の子たちは全員やっていたんじゃないかというくらいです。『コール・オブ・デューティー: モダン・ウォーフェア2』(以下、『MW2』)で私は初めて、自分が人種主義的な眼差しの対象になっている事実に直面することになりました。もちろん、それ以前にも映画などのメディアで、イスラム教徒やアフガニスタン人をテロリストや敵として描写する作品には触れていましたが、『MW2』では次から次へとやってくるアフガニスタン人をプレイヤーである自分が撃ち殺していくところが違っていました。この行為には何か深いところで拒否感を覚えました。自分自身を繰り返し撃っているように思えて。それからですね、ゲームが人種的なプロパガンダとして機能しうるのではないかと警戒し始めたのは。

──その他に大きな影響を受けたゲームは何かありますか?

コチャイ:一番のお気に入りを選ぶならメタルギアソリッドのシリーズです。あとは『FF7』が最も記憶に残るゲーム体験を与えてくれました。友人たちと多くの時間を過ごしたという意味では『Halo 3』のオンライン。それに『グランド・セフト・オート』(以下、『GTA』)は少年時代の大きな部分を占めています。『GTA4』は大傑作です。

──あなたにとって『メタルギアソリッド』シリーズはどのような意味で重要なのでしょうか?

コチャイ:『メタルギア~』シリーズが出るごとに、これは時代を画する出来事だと感じました。小島監督は特有の技術を極めた巨匠で、常にゲームの枠を押し広げようと全力で挑み続けていて、その姿勢に私は強く惹きつけられ、励まされてきました。

 10代の頃、『メタルギアソリッド4』をプレイしたときのことをよく覚えています。冒頭のチャプターで、民間軍事会社による終わりなき戦争と混乱が描かれていて、その反戦的な政治性や、複雑でありながらも一切妥協のないグローバルな戦争観に胸を打たれました。とりわけ、『モダン・ウォーフェア』シリーズに見られた人種主義や軍事賛美的な政治性と比べると、その差は際立っていました。

 それに何より、『メタルギア』の各作品はどれもゲーム制作の職人芸が散りばめられた傑作です。偉大なアーティストたちに共通するように、小島監督は作品の「細部」にこそ命が宿ることを理解しています。敵兵がプレイヤーの戦術に適応すること、水鉄砲で電子機器を無効化できること、気絶させた敵を隠して他の敵に見つからないようにすること。そうした緻密なゲームメカニクスの積み重ねは、『メタルギア』シリーズの哲学的な世界観を最も効果的に表現しています。彼のゲームはいつも、「皆殺しにする」のではなく「非殺傷の戦術を選ぶ」プレイヤーへの報酬を用意しています。選択肢の多さは、彼のゲームの特徴の一つです。小島監督の作品への愛は語り尽くせません。何時間でも語り続けられると思います。

──小島監督は新たに『DEATH STRANDING』というゲームシリーズを発表しています。2019年の第一作にはどのような感想を持たれましたか?

コチャイ:21世紀でもっとも革新的なゲームの一つだと思います。まるでこの作品は、多くのビデオゲームが前提としている物語的な論理、つまり「A地点からB地点へと素早く移動するために敵の大群を倒していく」という構造そのものを解体・再構築しようとしているように感じられました。

 『デス・ストランディング』では、殺人や死は「報酬」として扱われません。むしろ殺人は現実そのものに裂け目を生じさせる「出来事」になりえています。それは一見すると幻想的に思えるかもしれませんが、殺人とは本来そういうもの、すなわち現実を断ち切って新たな層へ移行する破局的な「出来事」なんです。小島監督はそういう、ゲームが忘れてしまった哲学をゲームプレイの仕組みそのものの中に徹底的に埋め込んでいる。そこが驚異的ですし、これまで私が体験したどんなゲームとも異なっていました。

 それと同時に、この作品には『メタルギア』シリーズの要素も響いています。細部への徹底したこだわり、マキシマリズム、度を超えたストーリー展開、SF的要素、グローバルな政治への眼差し、そして極限まで突き詰められたリアリズム。そうした特徴を受け継ぎながらも、『デス・ストランディング』は独自の美学とゲームプレイのスタイルを切り拓いています。

──2025年には小島監督の最新作、『DEATH STRANDING 2: ON THE BEACH』が発表されました。これについてはどのような所感をお持ちですか? 

コチャイ:まだクリアしていませんが、プレイした範囲で言うと、小島監督は前作の思想的な本質を維持しながら、ゲームプレイに関するほぼすべての要素を改良することに成功していると思います。一作目は、多くの点で非常に挑戦的なゲームでした。特に序盤の数時間はできることが限られていて、一部のプレイヤーには退屈だったかもしれません。しかし私にとっては、ゲームをどのように体験するのか、ゲームの仕組み(メカニクス)をどう考えるか、といった問題を根本的に問い直す機会が与えられたようで、むしろ喜ばしく思いました。

 その一方で、『デス・ストランディング2』(以下、『DS2』)では、前作のテンポの遅さに対する批判に小島監督が耳を傾けたように思います。プレイヤーに挑戦を与えつつも娯楽性をきちんと保つという、より優れたバランスが取られています。この「挑戦と娯楽のバランス」は、私自身の作品においても常に意識している課題です。物語も焦点が定まってキャラクターにフォーカスしているように感じられます。サムとルーの関係は驚くほど愛情深く、心温まる演出になっています。私は二人の娘の父親でもあって、長女と一緒にゲームをプレイしているので、多少ひいき目になっているかもしれませんけどね。娘はゲームの三輪バイクに乗るのが大好きなんです!

──前作の『DS1』は、現実に亀裂を生じさせる特別な「出来事」として死を表現できていたというのがあなたの評価でしたね。しかし、『DS2』ではBT(幽霊のような存在)を手懐けることが可能になったことによって死の特異性が減ってしまったのではないでしょうか?

コチャイ:なるほど、その意見にはまったく同意です。テーマとゲームプレイの双方の観点からして、BTの存在意義は薄れてしまったと思いますね。もちろん私も小島監督の作品のすべてに100%の賞賛を捧げるわけではないです。サムにしても、もっと複雑な面を併せ持つ魅力的なキャラクターにできたはずだと思っていますし。とはいえ、コジマゲームが与えてくれる経験はあまりにも独創的です。そういう途方もなく、不条理で、コミカルで、ドラマチックで、美しい物語のヴィジョンを前にすると、一般的に文学を批評するようなやり方で対応するのは何か的を外しているような気にもなります。コジマゲームに対して私は、バカバカしいものを受け入れる覚悟で臨みます。時には陳腐な会話があって、境界線上にたゆたって価値基準を撹乱してくれるキャラクターたちがいる、と。これはデヴィッド・リンチの映画に対する覚悟と同じなんですよ。奇妙で不穏な演出によって、会話が必然的にぎこちないものになるとして、それを真正面からぎこちないと言うだけでは批判として物足りないでしょう。小さな「欠点」や不自然さにこだわりすぎると、全体的なヴィジョンの巨大さや独創性を見失ってしまいます。こうしてコジマゲームの先鋭的なゲームプレイ、思想的な深み、政治的/社会的批評性といった多くの要素の融合度合いを高く評価する私は、「欠点」については目をつぶっているのかもしれませんね。

──日本の読者たちもあなたの次の作品を期待しています。新作について今言えることがあるようでしたら、お聞かせください。

コチャイ:もちろんです。今は長編小説に取り組んでいます。周囲に山火事が広がるなか、アメリカの特殊部隊がアフガン系アメリカ人の一家を家宅捜索しようとする話です。それと並行して、アフガニスタンとアメリカを舞台にした新しい短篇集にも取り組んでいます。

──最後に、日本の読者に向けたメッセージをお願いします。

コチャイ:日本の皆さん、短篇集をぜひお楽しみください。日本語に翻訳されるのはとても光栄ですし、日本にも行きたいと思っています。今後も新しい作品を書き続けていきますので、また手に取って頂けたらうれしいです。

 あとは、特別に感謝の言葉を述べておきたいのですが、小島秀夫監督のおかげで書けた作品であると言っていいほどに、多くのものを与えていただきました。『メタルギア』は私の人生を変えてくれました。あなたのゲームを通して、暴力、グローバルな戦争状況、メタフィクション、物語、様々な物事についての考え方をその都度作り変えてきて今の私があります。私はあなたの創作物に教わった学生であると、そのように思っています。本当にありがとうございました。

■書誌情報
『きみはメタルギアソリッドV:ファントムペインをプレイする』
著者:ジャミル・ジャン・コチャイ
翻訳:矢倉 喬士
価格:2,750円
発売日:2025年2月27日
出版社:河出書房新社

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