山岳遭難の名著『いまだ下山せず!』山岳ライター森山憲一が著者・泉康子に訊く山での人間社会を描いた理由
山岳遭難を描いた書籍には、名著とされて長く読み継がれているものが少なくない。いまやこの本も定番的名著のひとつといってさしつかえないだろう。1994年に刊行された『いまだ下山せず!』(宝島社)である。
1987年に冬の北アルプスで行方不明になった3人の登山者を、同じ山岳会の仲間たちが半年にわたって探し続けた執念の記録だ。遭難した3人と同時期に入山した150近いパーティに調査票を送り、その回答で「北アルプス南部証言地図」を作成――それを基に3人と接触した可能性のあるパーティと面談を重ねて、現地へも足を運びながら、謎をひとつひとつ解き明かしていく。
実際に起こった事故の記録ながら、ミステリー小説を読んでいるかのような緊迫感と臨場感で、読んでいる側もいつしか捜索に参加しているような錯覚に陥る。30年も前の著作が読み継がれているのは、捜索にあたる仲間たちの熱意と叙述の質の高さが、時代を超えて人の心を揺さぶるものがあるからだろう。
そして2025年8月、初版以来通算5版目となる「増補改訂版」が新たに刊行され、即重版になるなど、すでに話題書となっている。著者であり、実際に捜索にあたった山岳会員でもある泉康子さんに、今の思いを聞いた。
■別冊宝島創刊者からの提案
――この本は累計で9万部を超えているということですが、出版当時、これだけの反響は予想されていましたか?
泉:いえいえ、まったく。なにしろ初めて出版した本ですから。
――それまで文章を書く活動をされていたんでしょうか。
泉:書くことは昔から好きだったんですが、特に執筆活動をしていたわけではなく、職業は通信制高校の事務職員でした。長い文章を初めて書いたのは、中学2年の夏休み。満州・新京でソ連の侵攻を受けたため平壌に1年近く避難し、38度線を歩いて帰国した体験を書いた、ノート1冊分の「終戦直後の避難民生活体験記」でした。大学では「安保闘争へ立ち上がろう」というビラを毎日書き、日曜日はラブレターを書いていましたが、そのどちらも実らずに敗北。山を歩くなかで、そうした苦闘や逡巡が熟してきて、何かを書かずにはいられない好機が訪れたのかもしれません。
――出版に至ったきっかけは何だったんですか?
泉:宝島社の社長だった蓮見清一さんとは大学が一緒でして。大学時代の同志で、別冊宝島を創刊された石井慎二さんへの年賀状で山の遭難記を報告したところ、本にしないかと言われたんです。私が「そんな長い文章を書けるかしら」とつぶやいたら、石井さんは「原稿用紙50枚くらいのレポートなら書いたことあるでしょ。それを10本書けばいいんですよ」と言うんです。そういうものかと思って書き始めたらなんとかなったというところです。そのアドバイスがかなり印象的で、書き始める力になったと思います。
■異例のヒットの反響と増補改訂版の特徴
――山岳遭難の本で10万部近い部数というのはあまり聞いたことがありません。
泉:反響をいただけたことはうれしかったです。読んだ方から300通近い感想のお手紙をいただきまして、私が知らなかったことも含めて、さまざまな視点に気づかされました。ですので、この本は読者の方に育てていただいたような感覚を抱いています。
――このたび、2009年に出版された文庫版から16年ぶりとなる「増補改訂版」が出版されました。何かきっかけはあったのでしょうか。
泉:2年前に、雪崩をテーマにしたノンフィクションで『天災か人災か? 松本雪崩裁判の真実』(言視舎)という本を出版したのですが、これがきっかけとなって、宝島社さんからお声がけいただきました。増補改訂版では新たなあとがきで読者との対話を付記しました。巻末には文芸評論家の郷原宏さん、山岳ライターの柏澄子さんの解説が収録されています。編集者も新しい方になって、新しい風にのせてくださることはとても光栄です。
■ノンフィクションでありながら推理小説としての評価も
――この本の特徴として、捜索当事者の視点で謎に迫っていく、推理小説のような叙述スタイルがあげられると思います。これは意図したことなんでしょうか?
泉:特に意識はしていなくて、自分たちの必死な体験を書き残そうとした自然な流れでこうなりました。というのも、自分の登山を育ててくれた3人が遭難し、どこに行ってしまったのかまったくわからず、まさに自分たち自身が謎をかけられたような状況だったんです。捜索と調査でわかったことを時系列でそのまま書いたら、ああいう形になったということですね。捜索活動を始めたころは、寄せられる一つひとつの情報に対して“キツツキのように”反応していました。山岳会のベテランメンバーや他パーティから「命がけで捜索するんだから、いい加減なつまみ食い情報の寄せ集めじゃダメだ!」と言われた日から、情報収集の姿勢が科学的なものに変わりました。キツツキが血の通った“探究者”に変わったのです。
――その「謎を追う」というところが読ませる力になっていると感じました。
泉:高校時代は中島敦の『山月記』の格調に惹かれてよく音読し、長じてからは、吉村昭や保阪正康などの、記録文学といわれるものが好きでよく読んでいたので、その影響を受けているところはあると思います。事実を積み重ねていきながら、ひとつひとつドアを開けていくように真実に迫っていく書き方ですね。こういう書き方は、テーマに関心がない人でも読みやすくなるところがあるんじゃないでしょうか。たとえば私は戦艦のことなんて全然知らないんですが、吉村昭の『陸奥爆沈』は興味深く読めましたから。
――よくわかります。
泉:ただし、ノンフィクションは小説と違って、事実と違うことや空想は書けないですよね。ですから、小説のようなすっきりとした結末にならないことも多いです。『いまだ下山せず!』でも、「事故の原因を知りたい」という感想をいただきましたが、それは結局わからなかったんです。よくわからないことを勝手に想像して書くようなことはしないと心がけていたので書けませんでした。吉村昭はどんな奥地までも歩いて取材し、保阪正康も昭和史を解明するのに4000人以上の証言を集めて掘り出して真実に近づいたと聞いています。彼らは決して結論を断定しませんが、多くの事実を積み重ねることで、読者に「真実はこうではないか」と考えさせます。そういう読書経験から学んだところはあります。「結論をつまみとるのは読者。その材料を提供するのが筆者」という姿勢が備わってきたのかもしれません。
■山での人間社会を描く
――登山の専門出版社ではなく宝島社から刊行されたことには当初は違和感を覚えたんですが、むしろそれが一般性を持たせることになった面もあるかもしれませんね。
泉:そうかもしれません。そもそも私は山だけを書こうとしたのではなく、山という舞台に現れた人間社会を描きたかったんです。私自身、当時は登山の経験がそれほど深かったわけではないんですよ。山の会に入って登山を始めたのは40歳くらいのときで、事故があったときは登山歴10年くらい。雪山登山も冬の八ヶ岳、春の涸沢、夏の三ノ窓雪渓、長次郎雪渓、平蔵谷の雪渓に行ったことがあるくらい。岩稜は剱岳の八ツ峰止まりです。冬の北アルプスは私にとっては想像の世界でした。
――それであの臨場感はすごいです。
泉:経験者にいろいろ話を聞いて書きました。遭難した3人が槍ヶ岳をめざした「表銀座」と呼ばれるコースは、燕岳から槍ヶ岳へ、双六岳から槍ヶ岳へと二度、夏には単独行で登ったことがあったので、地形などはわかっていました。冬山の肌で感じる状況はわかっていませんでしたが、話を聞けばすぐ理解することはできました。ただ、常念岳は遠くから眺めていましたが登ったことはありませんでした。
――山岳会の仲間たちだけで半年間にわたって捜索を続けたというところにも驚かされます。
泉:当初は警察が中心になって捜索してくれたんですが、それで見つからないと、あとは自分たちでやるしかなかったんです。
■現代の山岳遭難における問題点
――今は山岳会に入らない登山者が多いので、そうした自力捜索は難しいケースが現代では多くなっています。
泉:そうかもしれないですね。当時は「自分たちで探す」という意識が当たり前にあって、山岳会であれば、捜索活動をして、その結果を報告書としてまとめるまでが義務だと思っていました。『いまだ下山せず!』に書いたことは、その報告書を作るために調べたことがベースになっています。
――とはいえ、当時の水準を考えても、のらくろ岳友会(遭難者と泉さんらが所属していた山岳会)の捜索と調査はかなり徹底していたと感じます。
泉:確かに、当時の「のらくろ」だからできたことだったのかもしれません。会を結成して10年たったばかりで、私を除けば若い人が多くてエネルギーがあったんでしょうね。私は会のなかでは登山経験が浅いほうだったので現地捜索ではあまり力になれませんでしたが、それだけに情報収集に力を入れました。遭難した3人に山中で会っていたかもしれない人たちに話を聞くために名古屋や長崎まで出かけたりもしました。すでに手紙で問い合わせはしていたんですが、直接お話を聞くと、言葉のなかに手紙では伝わらない確信に近いものが感じられたんです。面談をするとき、その相手の性格をまずつかみとるものです。一番の重要証言をしてくれた大村勤労者山岳会のふたりは慎重な証言者でした。「事実と感想は別にして話す。予断を持って話し、捜索の視点を狂わせてはならない」という姿勢が貫かれていたことに、私は真実性を感じたんです。そうした体験が、本を書くときに筆致の力になったとは思います。
■書籍刊行における批判
――のらくろ岳友会は今も存在しているのですか?
泉:山岳会としてはもう活動していませんが、深い体験を共有した仲間ですから切っても切れぬ縁が続いています。
――事故があって活動を停止したわけではないんですね。
泉:そうですね。私も65歳までは一緒に登っていました。
――本を出すにあたって、仲間内から「そんな本は出すな」といった反対はありませんでしたか?
泉:なかったです。実名で出すことについては一人ひとりに確認しましたが、刊行後に「事実と違う」というようなことを言われたりすることもありませんでした。むしろ人物描写は当人のイメージどおりだと言われましたね。
――山岳遭難は関係者が詳細を公にすることに抵抗を示すケースも多くて、なかなか難しい面があると思うのですが、のらくろ岳友会は違ったんですね。
泉:ヨーロッパアルプスに登った会員が7人いましたが、普段は職場の中軸となって働くいろんな立場の山好きが集まった会だったので、しがらみがなかったんでしょうね。そのへんはオープンな会だったんです。
■増補改訂版で新たに加えた内容
――今回新たに刊行されたのは「増補改訂版」ということですが、旧版と変わっているのはどういうところでしょうか。
泉:本文は旧版どおりです。変えたところはありません。付け加えた点はふたつあります。ひとつは初版が出たあと、1990年代後半から2000年代にかけて、雪崩の研究が大きく進歩して、常識がかなり変わりました。私が本を書いた当時は、昔の常識に基づいて、雪崩の原因を単なる自然現象だと決めつけた書き方をしています。そのままだと誤解を招くおそれがあるので、新しい知見に基づいた考察をあとがき部分で捕捉しています。もうひとつは、読者との対話の紹介を加えました。初版から31年、書評も加えると対話者は350人にはなるでしょう。この作品を通じて、私に思いがけぬ視点を与えていただいたり、ハッとする言葉をいただいたり、31年の時を刻んで進化させていただきました。その貴重な対話を「あとがき 2025年夏」で紹介しています。
――この本を、今どういう人に読んでほしいと思われますか?
泉:登山をやっている人にはもちろん読んでほしいです。今でも参考になる部分は多いと思います。それから、登山をやらない人にも読んでほしい。実際にこれまでいただいた感想の多くは、登山をされない方からでした。私が戦艦のことを知らなくても吉村昭の本が読めたように、読者は情報だけを求めているのではなく、事実にたどりつくまでの過程を求めているのだと教えられました。山を舞台にしての一人ひとりが演じたドラマは、みなさんの職場や社会のどこにでも現れる縮図でもあると思います。私のささやかな文章歴が語るように、読者の苦闘や逡巡、挫折、敗北が時を重ね、発酵し、若い読者の新しい世界が開けてくることを祈っています。異世界を読む、書くことによって、新しい道が見えてくるかもしれません。多くの方に新たな発見をもたらすことができれば著者としてうれしいです。