伊坂幸太郎、恩田陸らのヒット作を手がけた “伝説の編集者” 新井久幸インタビュー「喧嘩を売るつもりでオビを作っています」
恩田陸『夜のピクニック』、伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』、道尾秀介『向日葵の咲かない夏』などのヒット作を手がけ、ミステリを中心に担当作品累計で1200万部を超える編集者が、新潮社の新井久幸である。彼が担当した最新刊は、「本物の「伏線回収」と「どんでん返し」をお見せしましょう」の言葉とともに送り出した櫻田智也『失われた貌』だ。この「伝説の編集者」は、どのように歩んできたか。(7月30日取材・構成/円堂都司昭)
綾辻行人、法月綸太郎、我孫子武丸らと過ごした学生時代
新井:はい。僕は1989年入学なんですが、先輩の綾辻行人さんは1987年、法月綸太郎さんは1988年、我孫子武丸さんは1989年にデビューしていました。学年で僕の1つ上が麻耶雄嵩さん、1つ下が大山誠一郎さんで、2人も後にデビューしました。
――学生の頃からミステリ関係の仕事に就くことを意識していたんですか。
新井:いや、最初は先輩に作家がいるってことは知らなかったんです。サークルに入ってから知りました。僕は小学生の頃はシャーロック・ホームズが好きで、中学でクリスティ、高校でエラリー・クイーンというミステリ読者でした。若者にありがちですけど、いっぱしのマニアのつもりで大学のミステリ研の扉を叩いたら、先輩たちのいう固有名詞が全然わからない。「どうもすみません、僕はビギナーでした」と思い知った瞬間でした。
当時は、我孫子さんや法月さんも、「犯人当て」や興味ある本の「読書会」には顔を出して下さっていて、先輩の新刊が出たときには、著者である先輩を交えてその本の読書会をやったこともありました。僕の下宿は、たまたまですが綾辻さんの家の近くだったんで、近所でばったり会ってそのままお邪魔したこともあります。もう結婚されていたから、小野不由美さんもいて、本を借りたり、ビデオを見せてもらったり、色々な話を聞かせてもらいました。綾辻さんもまだミステリ研には顔を出されていましたから、ちょっと年上の先輩という感じでした。そんな距離感は、法月さん、我孫子さんも同じです。法月さんは、小説や映画などについて「こういう伏線を張ったら、もっと面白くなったのに」とか、そういった話をよくされていて。そんな話を聞くのが楽しみで、法月さんと同じ本を読んだりしてました。自分は法月道場の門下生だと勝手に思っています。全般的なところでは綾辻さん、小野さん、本の読み方では法月さん、ゲームとかの遊び方面では我孫子さんといった感じで、みなさんには本当にお世話になりました。嘘みたいな話ですけど、当時はそれが日常だったんです。
――贅沢な日常ですね。創作はしていたんですか。
新井:犯人当ては一回生の最初の夏合宿でやることになっていましたから、一度だけ書きました。でも、あまり得意ではなかったので、僕はショートショートみたいなものを主に書いていました。作家でなくてもすごい作品を書く先輩が沢山いたし、自分がそれ以上のものを書けるとは思えなかったんですね。ただ、就職活動では、本にまつわる仕事ができる出版社を受けることにしました。実家の千葉県流山で、子どもの頃に通った駅前の本屋には、新潮文庫と角川文庫が主に並んでいて、シャーロック・ホームズもエラリー・クイーンの悲劇シリーズも新潮文庫で読みました。だから、もちろん何社か受けましたけど、新潮社に入社しました。
伊坂幸太郎、恩田陸、米澤穂信らとの仕事
――入社して最初の仕事は。
新井:今はない月刊誌「新潮45」に5年間いました。小説しか読んでこなかったのに、いきなりノンフィクション雑誌に配属されたわけですから、目次を見ても知らない名前ばかり。原稿を頼みに行く相手は自分の親より年上だったりする。でもそれが逆に面白がられて、可愛がっていただいたこともありました。田村隆一さんの連載担当を引き継いだのですが、戦後を代表する詩人とおつきあいできたのは得がたい経験でした。
――人事異動に関して希望は出せたんですか。
新井:入社して5年目に異動希望を出せる制度ができました。小説が好きだから単行本の部署で小説の仕事がしたい、と書いたんです。それが功を奏したのかどうか分かりませんが、翌年異動になりました。もともとノンフィクション雑誌にいたこともあり、最初はそちら方面の本を多く作っていました。立花隆さんの「猫ビル」(事務所の通称)に通い、杉山隆男さんの兵士シリーズの取材に同行して本を作りました。沢木耕太郎さんの担当も長くやらせていただきました。
――錚々たる方々と仕事されていますね。
新井:その一方で、「ミステリが好き」とあちこちで話していたら、新潮ミステリー倶楽部賞という新人賞を手伝うことになったんです。第5回の受賞が伊坂幸太郎さんの『オーデュボンの祈り』(2000年)で、僕が最終候補に残そうと言った中の1人だったので、担当になりました。
――文芸編集者としては、それが最初の大きな一歩みたいな感じですか。
新井:いや、そこではないですね。例えば、北森鴻さんの蓮杖那智シリーズの単行本担当だったんですけど、あれは雑誌掲載の担当がいる。企画の最初から作家とサシでやる書下ろしとはちょっと違います。伊坂さんに関しては、『オーデュボンの祈り』は新人賞の応募作だったから、最初からかかわったという点では『重力ピエロ』(2003年)がなんといっても思い出深いです。あの本を切っ掛けに色々なことが大きく変わりました。『重力ピエロ』を担当していなかったら、今ここでこうして話していることもなかったと思います。
新井:ネットでは「この編集者何様のつもりだ」とかボコボコにいわれました。でも、これって、コピーというより、単なる雄叫びなんですよね。他にもっといいコピー書いてるつもりなんですけどね(笑) でも、未だに話題にしてもらえるのはありがたいし、このオビを読んで編集者を意識したなんて話を聞くと、素直に嬉しいと思います。
――これまで多くの作家、作品を担当されていますが、少しふり返っていただきましょう。まずは、第2回本屋大賞と第26回吉川英治文学新人賞を受賞した恩田陸さんの『夜のピクニック』(2004年)から。
――米澤穂信さんについて。
新井:『満願』(2014年)の話をすると、「Story Seller 3」(2010年)というアンソロジーを作った時に、表題作「満願」の原稿をいただきました。僕が「小説新潮」に異動になったので、単行本は別の人間が担当したんですけど、異動前にどんな本にしようかと相談したので、切っ掛けにかかわっているんです。僕は、「最近は連作短編集ばかりで連作の世界観から逃れられず、ミステリの自由な羽ばたきが制約されてしまっているように感じられる。そうではなく、1本1本ミステリの可能性を探っていく短編集が読みたい」といったようなことをいいました。連城三紀彦が大好きな僕は、「『戻り川心中』みたいな短編集を書いて下さい」といい、米澤さんは泡坂妻夫が好ですから、「『煙の殺意』みたいなものを目指します」と応えて始まったのが『満願』です。短編集は売れないといわれて久しいですが、『満願』は『このミステリーがすごい!』で1位になって、第27回山本周五郎賞を受賞したうえ、よく売れた。満願成就でしたね。
新井:「小説新潮」へ異動になった時、単行本の担当は代替わりしたんですけど、その担当が退社して今は僕に戻っています。『ゴールデンスランバー』(2007年)の最初の打ち合わせを仙台でした時、伊坂さんが「伊坂幸太郎的にエンタテインメントを突きつめてみたいんですよね」と話されていた。帰りの新幹線で、僕は「伊坂的娯楽小説突抜頂点」というコピーを思いつき、東京に着いてから、まだ1行も存在しないのに「本の帯を決めました」と伊坂さんにメールしたんです。実際に本にする時、さすがにあのコピーは変えた方がいいかもと思ったんですけど、伊坂さんが「今さらなにいっているんですか。あれでいいですよ」と言われたのでそのままにしました。