育児も仕事も“詰みそう”なあなたへ――『対岸の家事』朱野帰子が語る、普通の女性たちの「孤独」と「光」
誰もが「どうしたら自分の選んだ道を肯定できるか」と葛藤している
朱野:詩穂に関しては、やはり「孤独」です。高校生のころからヤングケアラーとして過ごしてきたことで、友だちと青春を送る機会を失ってしまった。さらに、子育てをしているいまも、気づけばまたひとりになってしまっている。思いつめて屋上に登ってしまったこともあるくらいで、「誰でもいいから仲良くなりたい」という気持ちがすごく強くなっているんです。あんなに意見が合わない中谷のことも避けようとしないのは、「それでも孤独よりはマシ」という思いがあるから。砂漠で誰かに出会ったような感覚に近いんです。
実は詩穂の「孤独」は、わたし自身の実体験がもとになっています。保育園から帰る途中に、園児たちをかわいがってくれるおばさんがいたんです。うちの子にも「ぬいぐるみを見にいらっしゃい」と声をかけて家にあげてくれて。子どもがいなければ、特別親しかったわけでもないそのおばさんとの会話に、こんなにも救われるなんて気づけなかったと思います。
――子どもと自分だけの生活を送っていると、ほんの数分でも誰かほかの大人と話すことで気が楽になるんですよね。突然話しかけてくれるおばさんって、実は社会的にすごくありがたい存在なんですね。
朱野:そのころのわたしはずっと無表情で、顔に生気がなかったと思うんですけど、そんなわたしにも気にせず話しかけてくれたことがすごく救いになったんです。そのときの感覚が詩穂の行動原理にも反映されています。
――そんな「孤独」な日々の中で、詩穂と苺が天井にキラキラと反射した光を見つめるシーンが、とても印象的でした。
朱野:あのシーンはドラマでもすごく丁寧に描いていただいて嬉しかったですね。書いては直し……を繰り返していた時期に、専業主婦の友人に出来上がった原稿を一度読んでもらったことがあったんです。そのとき「あの光が当たってキラキラしてるのを子どもと見ているシーン、よかったね」と言ってもらえた。「え、そこだけ?」とも思ったんですけど(笑)。友人のアドバイスがきっかけとなって、天井を見上げる場面を軸にすべてをイチから書き直しました。それまでは詩穂のキャラをもう少し立たせなきゃいけないかな、なんて考えていたんですが、もっと“どこにでもいそうな普通の主婦”に変更しました。
最近では、「子どもの記憶に残るのは、旅行やレジャーといったイベントよりも、親といっしょにごはんを作ったこと」といった話も耳にします。読み聞かせた絵本の内容よりも、そのときママが履いていた靴下の模様のほうが記憶に残ることだってある。ですので、あのシーンも苺が将来ふと思い出してくれたら嬉しいなと思っています。
――朱野先生には、そういった子供の頃の思い出はありますか?
朱野:それこそ専業主婦だった母がいる家の中でゴロゴロしながら、天井に反射する光を眺めていたのが一番古い記憶なんです。でも、親になったわたしは“子どもを保育園に預けて働きながら子育てをする”というスタイルを選びました。その過程で、一度あの記憶を自分の中で完全に否定したこともありました。必死に生きているときほど「何気ない時間が大事」なんて話、正直聞きたくないじゃないですか。むしろ「あなたは努力不足だ」と責められているような気さえするし。
ただ、いまでもあの記憶は心の中でキラキラと光っていて、思い出すたびに「母が専業主婦でよかったな」と思います。だから、わたし自身ものすごく葛藤していたんだと思います。中谷や礼子のように「自分の人生を諦めたくない自分」と、詩穂のように「子どもとちゃんと過ごしてあげたい自分」との間で揺れていたんです。
――だからこそ、「自分の選んだ道をどう肯定できるか」という思いに、多くの方が共感されたのかもしれませんね。朱野先生は『対岸の家事』を家事・育児と並行しながら執筆されていたわけですが、どのように時間を作っていたのでしょうか?
朱野:最終的に『対岸の家事』を書き上げたのは、子どもたちが2歳と6歳のころでした。昼間は子どもを見ながら時間を見つけて少しずつ書いていたんですが、もちろんそれだけでは終わらず。夜8時ごろに帰宅した夫に育児をバトンタッチして外出し、クタクタの体を少しでも回復させるために近所の銭湯に寄ってから、ファミレスで深夜0時まで執筆……そんなスタイルで、1週間に1話ずつ書き進めていきました。
当時の担当編集さんと毎週打ち合わせをしていたのですが、いま思えばその週1回のミーティングが、子育てのいいガス抜きになっていたのかもしれません。担当編集さんも、ちょうど同じく2歳のお子さんを育てているパパだったので、お互いに抱えている悩みをよく打ち明け合っていました。
――詩穂と中谷のような関係性だったんでしょうか?
朱野:うーん、どちらかというとわたしが中谷で担当さんが虎朗でしたね。登場人物たちは、もともとすべてわたしの性格をヒントに生まれているんですが、子育てに関する価値観で共感度が高いのは、断然、中谷と礼子なんです。一方で、担当編集さんは、詩穂と虎朗のように“子ども中心”で生活を組み立てていくスタイルに共感していて。
たとえば、ミーティングのときにわたしが「土日は、夫婦どちらかが交代で休まないと心がもちません」と話したら、「それは同意できません」なんて言われてしまったこともありました。担当さんは「平日は仕事をしているからこそ、土日は子どもとずっと一緒にいたい」という考えでした。そんなやりとりがあったからこそ、異なる考えを持つキャラクターたちを書きやすくなったかなとも思います。
専業主婦ではない母を持つ娘たちによる『対岸の家事』フェーズ2も!?
朱野:そうですね。以前、文芸評論家の三宅香帆さんに「朱野作品は、国や会社という大きな社会と、家庭という小さい社会と、たったひとりである個人という三つの位相の狭間で葛藤する登場人物たちを描く」と書いていただいたことがあって、自分でもまさにその通りだなと思いました。昔から企業小説の中にも家庭の描写はあったので、ある意味では伝統的なスタイルとも言えます。
ただ、これまでの企業小説って、主人公は男性で、父との関係性が重要なテーマになっていたんですよね。『半沢直樹』や『金融腐蝕列島 呪縛』もそうですが、父の存在が主人公の人生を大きく左右し、最終的に“父にはできなかったことをする”という、いわば「父殺し」を経て成長する構造になっている。だから『わたし、定時で帰ります。』でも、その伝統に倣って「お父さんのようにはならない」という展開にしました。主人公は女性でしたが、働く会社員として乗り越えるべき存在はやはり“父”だったので。
それが『対岸の家事』では、家事を担う人として乗り越えるべき存在が“母”になるんですよね。時代的に詩穂も中谷も礼子もみんな専業主婦の母に育てられているので。立派にやり遂げた母もいれば、道を誤ってしまった母もいるけれど。そんな“専業主婦として生きた母”に対して、どう「母殺し」を描くかが、ひとつの焦点になると考えていました。
――心の中で「ちゃんとできていない」と自分を責める声って、実は、かつて専業主婦の母に育てられて嬉しかった“あのときの自分の声”だったりしますよね。
朱野:そうなんです。うちの母は、料理に凝ったり掃除を完璧にこなしたりするタイプではなかったんですけど、それでも、ふと「今の自分はあのころの母よりもできていない」――そんな敗北感というか、常に“未達であることへのストレス”がありました。
でも、それも今の子育て世代までかもしれないですね。我が家もそうですが、わたしの次の世代は、“母親がワーキングマザー”であることがマジョリティになっていく。むしろ働く会社員として「母を超えたい」という物語が増えていくのかもしれません。中谷や礼子の娘たちなんか、まさにそうなるかなと。
わたしとしては中谷が娘をすごく熱心に教育して、ハイキャリアに育てようとするスタイルって、これまでにあまり描かれてこなかった新しい流れだなと思っているんです。どちらかといえば父親って「女の子なんだから、そんなに頑張らなくてもいいじゃない」みたいなスタンスが多かったように思っていて。でもいまは積極的に子育てしているパパたちの多くが、かつて自分が子供のころに向き合ってきたように、娘に対しても進路や受験に深く関わろうとしている。そこに、明らかに“新しい時代の風”を感じています。となると、いよいよ『対岸の家事』フェーズ2ですよね。
――中谷の娘の反抗期がどうなるのか気になります。
朱野:娘に「学童行きたくない!」ってゴネられて、中谷のキャリアに危機が訪れる! 見守りGPSを付けたスマホの電源を切られて大慌て! ……みたいな展開もあり得ますね(笑)。
――中谷家が受験に熱を上げて、それを見てちょっと心が乱れる詩穂……そんな姿も浮かびます。続編、ぜひ読みたいです。実際に執筆のご予定はありますか?
朱野:いままた子育て真っ最中のタイミングなので、書くとしたら子どもたちが中高生を抜けたあたりになってからかもしれません。
――『対岸の家事』が多くの人に届いたことで、世の中の空気が少しやわらいだようにも感じました。各自が選んだ道が「自己責任」として片づけられ、愚痴すら許されないような空気が、どこかに漂っていたような気がしていたので。
朱野:エンターテインメントというフィルターを通すことで、シリアスな話題もぐっと話しやすくなるものです。自分のこととして愚痴をこぼすと「大変アピール」と受け取られてしまうこともありますが、例えば礼子がカレーをぶちまけるシーンに「わかる!」とか「こういうとき、あるよね」と共感するような形であれば、聞く側も構えずに受け取ることができます。架空のキャラクターに置き換えることで、コミュニケーションがとりやすくなる。結果として、当事者の苦しさが少し和らいだり、非当事者の理解が進んだりするのではないかなと思うのです。
だからこそ、自分の経験をエンタメとして形にするのは、実はとても難しいことでもあります。あの怒りも苦しみも、「どうすれば楽しい作品として読者に届けられるか?」と自問しながら、何とか物語として成立させていかなくてはならない。本当は愚痴としてぶちまけたい気持ちを、必死に抑えながら(笑)。そういう意味で『対岸の家事』は、わたし自身が経験をエンタメに昇華することで少しラクになれた、そんな“セラピー的”な作品でした。
小説の中で詩穂に「たかが、家事の話だ」「会社で働いてる人たちには退屈だろう」と言わせることができたときには、「あ、ようやくうまく書けたかもしれない」と少し解放された感覚がありました。「聞いて聞いて!」という状態でいるあいだはどうしても苦しさがつきまといますが、それが「つまらない話を聞かせてしまいましたよね」と言えるようになったとき、ようやく一歩大人になれたような気がしたんです。
――そういう意味では「家事=家族の世話をする」というのは、大人にならないとできないことかもしれませんね。
朱野:大人になって腹をくくると、ある意味でラクになれる部分もあるんですよね。若いころって「キラキラした自分になりたい!」という気持ちが仕事を頑張る原動力になっていた一方で、「何者にもなれない」という焦燥感や劣等感にも苦しみがちじゃないですか。
大人になると、現実に目を向けざるを得なくなってきます。「子どもの教育費のために働く」とか、「物価が高いからとにかく稼がなきゃ」といったように、働く理由がどんどん地に足のついたものになる。そうして現実と折り合いをつけながら、生きていく人としての“器”のようなものが、少しずつ自分の中にできてくる感覚がありますよね。そうやって“大人の対応”を積み重ねていくうちに、平凡な人生の素晴らしさにも気づけるようになる。家族みんなが健康で、何ごともなく過ごせた「ただの一日」が、どれほど尊くて、どれほど愛おしいものか――そんなことを、ふと実感できるようになるんです。
とはいえ、現実は決して美しいままではありません。子どもが「明日の朝6時に起こしてね」なんて軽く言ってきたり、学校から帰るなりプールの道具をバサーッと広げたり。「それ、誰が片づけると思ってるのよ!?」って叫びたくなる、終わらない家事に追われる毎日ですけど(笑)。
ただ、子どもが生まれたばかりのころは、わたしと夫の間で「どう家事分担するか」といった対立構造があったのに、気がつけば「家事を分担する父と母vs. 家事手伝いから逃げようとする子どもたち」みたいな新たな構図に変わっていて。それはそれで、ちょっと面白いなとも思っています。最近では、土曜日に家族全員で一斉に掃除をする時間をつくって、「私だけがやらされてる」感をなくそうと工夫しているところです。そんなふうに、それぞれの家で「家事をめぐるドラマ」は、これからも続いていくんだろうなと感じています。
■書誌情報
『対岸の家事』
著者:朱野帰子
価格:924円
発売日:2021年6月15日
出版社:講談社