『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』で再注目 45年前の小説版『機動戦士ガンダム』で描かれた驚きの展開とは?

小説版『機動戦士ガンダム』と『GQuuuuuuX -Beginning-』の類似点

 そうした、展開の変更であったり描写の深化であったりといったものから得られる小説版の驚きは、第3巻のクライマックスでさらに大きな波となって押し寄せてきて、TVアニメでファンになった人を呆然とさせる。どういうことかは読んでのお楽しみとして詳述を控えるが、ひとつ言えるのは、小説版の『機動戦士ガンダム』と最新のアニメ『機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-』には、とても似通った部分があるということだ。

 つまりは「なんでもあり」ということ。「ガンダム」というロボットさえ出ていれば、あとは国々の代表がガンダムを操り対決する『機動武闘伝Gガンダム』のようなイジり方をしても良いし、『新機動戦記ガンダムW』や『機動戦士ガンダム 水星の魔女』のように新たなストーリーを組み上げても良い。いわゆる「宇宙世紀(UC)」からの脱却だ。あるいは劇場版『機動戦士ガンダム』3部作のように、TVアニメの基本線はなぞりつつ、細部を差し替えても構わない。

 こちらもTVアニメ『機動戦士Zガンダム』を劇場版として再編集した『機動戦士Ζガンダム A New Translation』に至っては、結末そのものが違っている。ある意味で真逆とも言える展開は、小説版『機動戦士ガンダム』の結末とも重なるものだ。たとえ続編としての『機動戦士ガンダムZZ』や『逆襲のシャア』に繋がらなくても、そういう可能性もあって良いのだとうことを、生みの親の富野監督自身が示してのけた。

 そして、鶴巻和哉監督による『機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-』も同様に、可能性を問う物語になっている。何に対する可能性なのかもやはり興味を削ぐことになるため詳述を控えるが、「なんでもあり」のスタンスから生まれた物語は、どこか見覚えのある舞台の上で繰り広げられる、誰もまだ観たことのないものになっているとだけは言っておこう。観たあとはなぜか『機動戦士ガンダム』が観たくなるが、それなら併せて小説版『機動戦士ガンダム』も読んで行こう。

 やはり富野由悠季監督は先駆者であると唸らされるから。そこから続く物語を『GQuuuuuuX』と重ねて想像し、読んでみたいと思わされるから。

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