連載:千街晶之のミステリ新旧対比書評 第3回 多岐川恭『異郷の帆』×霜月流『遊廓島心中譚』

■多作な小説家、多岐川恭の傑作

(左から)多岐川恭『濡れた心/異郷の帆』(講談社大衆文学館)、霜月流『遊廓島心中譚』(講談社)

 1958年に『濡れた心』で第4回江戸川乱歩賞を受賞した多岐川恭は、ミステリと時代小説を中心としてエネルギッシュに活躍した多作な小説家だったが、最高傑作はどれかと問われた時に、『異郷の帆』を挙げるひとは多いのではないか。著者の1961年の作品であり、著者が亡くなってから3年後の1997年に、『濡れた心』と合本で講談社大衆文学館から刊行されたのが最新版ということになる(現在は電子書籍で読める)。なお、講談社大衆文学館版の表紙のあらすじ紹介では「幕末日本」という言葉が使われているが、これは明白に誤りである。

  江戸時代、幕府は長崎に出島という人工島を造り、貿易のため訪日したオランダ人などの外国人をそこから外に出さないようにした。江戸中期の元禄4年(1691年)、その出島で、ヘトル(次席商館員)のファン・ウェルフが胸を刺されて殺害された。凶器は薄い刃物らしいが、出島のどこからも発見されず、沿岸の海底の捜索も無駄に終わる。

  主人公は、小通詞を務める若き幕臣の浦恒助である。彼は、先例と規則で縛られ、威張り返った者が多い武士の世界にうんざりしており、日本を出て万国を巡ってみたいという夢を抱いている。だが、かといって彼には西洋の医学や語学を修めようというほどの向学心はないし、そもそも鎖国政策下のその時代、彼の志は所詮は叶わぬ夢でしかない。一方、浦の同僚で、元ポルトガル人の宣教師ながら棄教して日本名を名乗っている西山久兵衛は、日本はそう悪くないと嘯きつつ、日本人からもオランダ人からも軽蔑される立場のため、内心には屈折した感情を滾らせているようだ。

  他にも、浦の想い人でオランダ人と日本人遊女のあいだに生まれた孤児のお幸、日本に憧れて渡来したが牢獄のような出島の現実に幻滅しているオランダ人少年のピーテル、浦やお幸に親切に振る舞うが腹の底が読めない乙名(町役人の次席)の吉田儀右衛門など、この物語の主要登場人物は皆、その立場と本心とに引き裂かれている。出島という閉鎖的空間でそれらの想いが渦巻き、ぶつかり合った結果として起きたのが、ヘトル殺しに始まる一連の惨劇だったのだ。著者は本作で出島を密室に見立てているが、主人公である浦の心情と、ラストにおける彼の選択からは、出島どころか、鎖国状態の日本そのものが世界から見れば密室であるというもうひとつのメッセージが本作に籠められているように読み取れる。

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