古川日出男の複雑怪奇な「パンデミック」論 『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』評

 古川日出男の小説は、いつだって大きい。それは、いわゆる「メガノベル」と称される『アラビアの夜の種族』(2001年)や『聖家族』(2008年)、『南無ロックンロール二十一部経』(2013年)のような小説群、はたまた、さらに分厚い「ギガノベル」である『おおきな森』(2020年)のように、文字どおり、ブツとしてデカいという意味での巨大さだけを指すのではない。それに比べれば「薄い」(とはいえ350ページ以上に及ぶ)、この『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』(2024年)でさえも、やはり「これは大きな作品を読んだ」という読後感が、胸の内に強く残響することになるのである。

 なにせ本書は、フィクションであり、ノンフィクションであり、戯曲であり、紀行文であり、私小説であり、物語であり、創作雑記であり、オペラであり、闘病記であり、批評であり、祝詞であり、歴史であり、奇想文学であり、グルメリポートであるのだから。

 作品の内容に触る前に、いったん時を遡ろう。2018年、上記の『おおきな森』を連載中の古川は、批評家・佐々木敦との対談(『「小説家」の二〇年 「小説」の一〇〇〇年/ササキアツシによるフルカワヒデオ』)で、自身の作家としての足跡を振り返りつつ、こう話していた。

佐々木 〔……〕二〇一九年中に『おおきな森』の連載は終わるであろうと。となるとその本が出るのは二〇二〇年。既に二年後の未来まではロードマップがあるわけですが、その後は考えてるんですか。

古川 考えてない。

佐々木 考えないようにしている?

古川 考えても無駄だから。考える前提としてのこの世界の情勢がスタティックであるという幸運な時代もあったんだけど〔……〕それはもうなくなっちゃったし、状況はどんどん変わりつつあるから、こっちが考えておいても対応しきれない。〔……〕正しい直感はパッシブなものだから、変にはアクティブにしておかない。

 古川の予感、ないしは予言は、悲しいかな的中する。『おおきな森』が上梓された2020年、周知のとおり「世界の情勢」は、あらゆる予断的な「考え」を嘲笑いながら蹴散らすかのように、劇的に転変することになるからだ。むろん、新型コロナウィルスのパンデミックがそれである。なるほど、突如出現したその禍患は(ロックダウン、黙食、ステイホームなど、人々に「スタティック」たることを要請する一方)、猛威となり世界全域をダイナミックに席巻した。

 そのような世界的混乱を経て発表された本書は、タイトルから推測されるとおり、著者なりの「パンデミック」論である。いや、もう少し正確に言っておこう。「パンデミック」は、確かに人類の脅威だった。にもかかわらず(もしくは、だからこそ?)現在、人々はそれをもはや過去のものとして、いとも容易く忘却しつつあるのではないか。限りなく著者に似た存在の語り手「僕」は言う。「パンデミック下の暗鬱な世界で僕はある段階から危機感を持った。記憶のための記録をしようと思った」。

 では、どのように? この複雑怪奇なテキストの企図するところは、あらかじめタイトルでほとんどすっかり白状されている。すなわち、世界を翻弄した「パンデミック」というグローバルな物語を「オペラ」化し、「京都」というローカルな観光都市を「劇場」として上演すること。著者の代表作である『聖家族』が「東北」を舞台としながら、「日本」、ひいては「世界」を貫通する物語だったように、ある土地をつぶさに描くことで、同時に、それを遥かに超越する世界的な、人類史的なヴィジョンを提示する、という逆説的な飛躍は、もとより古川の得意とするところである。

 そこにオペラの要素が加味される。本書序文で「僕」は、こう思案する。「パンデミックには悲劇があった、喜劇もあった、だとしたら欠けていたのは?/欠けているのは?/歌劇だ」。かくして古川は「歌劇」つまりは「オペラ」によって「パンデミック」という悲喜劇の死角を突こうとするのである。もちろんそれが、一度見れば忘れられないような珍奇な催しであるならば、いっそう望ましい。

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