映画版公開迫る『箱男』 安部公房が描いた「見る/見られる」の物語が“今こそ”恐ろしい理由

 「箱男」とは何者か? もしあなたが完全な「匿名性」を手に入れ、一方的に世界を覗き見ることを日々夢想しているような人物であれば、“それ”になる資格は充分あるだろう。

 小説『箱男』は、奇才・安部公房の代表作の1つであり、この夏(2024年8月23日[金]〜)、石井岳龍監督、永瀬正敏主演による映画版が公開予定だ。

 ちなみにこの『箱男』、映画版はどちらかといえばエンターテインメント性の高い物語にアレンジされているようだが――それは安部公房が映画化を許諾した際の要望でもあったようだ――原作の方は少々難解である。

※以下、安部公房著『箱男』(新潮文庫)の内容に触れている箇所があります。同作を未読の方はご注意ください。(筆者)

不条理な「見る/見られる」の物語

 安部公房の『箱男』は、ある男(=「ぼく」)がノートに書き留めた記録をもとにした物語である。

 主人公の「ぼく」は、元カメラマン。都会の片隅で、縦横それぞれ1メートル、高さ1メートル30センチほどのダンボール箱を頭から被り、切り抜いた小さな「窓」から世界を覗き見ることで日々を過ごしている。この世には「ぼく」の他にも「箱男」が何人も存在しているようだが、基本的には1つの街に複数の「箱男」が共存することはない。

 ある時、「ぼく」は、1人の謎めいた看護婦と出会い、あらためて「見る/見られる」という行為を問い直すことになる……のだったが、ストーリー展開が比較的わかりやすいのは序盤のこの辺りまでで、中盤以降、物語はかなり複雑な様相を呈してくる(くだんの看護婦だけでなく、「贋箱男」や「軍医殿」なる怪人物も絡んできて、何が真実で何が嘘か、あるいは、この手記がいつどこで書かれていて、語り手が誰なのかさえ曖昧になってくる)。

「匿名性」とは何か、「自由」とは何か

 それでは、作者はこの迷宮めいた物語でいったい何を描こうとしたのだろうか。まず考えられるのは、「匿名性」と引き換えに手にすることのできる「自由」の意味だろう。この物語の中では、人は「箱」を被ることで、匿名性を得て自由になることができる。そんな「箱男」(あるいは「箱女」)になりたいと多くの人々は潜在的に願っているはずだが、実際にはほとんどの者がなれないし、なろうともしない。なぜなら、「箱男」への転身(転落?)は、社会からのドロップアウトを意味する、いわば反逆的な行為だからだ。

 だから善良なる一般市民たちは、何かの拍子に「箱男」が視界に入ってきても、それを「存在しないもの」として「見えていない」ふりをするのである。そのどこかぎこちない態度には、心の底では自由でありたいと願いながらも、社会の枠をはみ出すことに伴う「責任」からは逃れようとする者たちへの皮肉が込められているように私は思う。

 そして、もう1つ。安部公房が本作で伝えようとしたのは、「見る/見られる」という行為が逆転した時の恐ろしさだろう。たとえば、主人公の「ぼく」は、「匿名性」という名の隠れ蓑を着て、一方的に世界を見ているつもりだったわけだが、ある時、実は他者に見られていたのだという事実を知る。自分は覗いているつもりだったのが、実際は覗かれていた、というのはなかなか怖い話なのではあるまいか。

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