M-1、ナイツ・塙宣之「ダンビラムーチョは寄席で一番ウケるネタ」の真意は?『東京漫才全史』が紐解く歴史

神保喜利彦『東京漫才全史』(筑摩選書)

 本書『東京漫才全史』(筑摩選書)は、1996年生まれの漫才研究家・神保喜利彦(じんぼきりひこ)による、これまで書かれることがほぼ皆無だったという東京漫才の通史を、今の視点からまとめ上げた一冊だ。

 そもそも漫才とはいつ生まれたのか?〈「漫才の歴史」とはいうが、そう簡単に紐解くことができないのが漫才の難しいところである〉。こう著者が冒頭に記す通り、漫才とはさまざまな芸を吸収した「複合芸」であり、どれに大きな影響を受けていると断言が難しい。とりあえずベースとなっているのは、長寿や国家安泰を祈念して厳粛に舞い踊る、平安時代の祝福芸「千秋萬歳」(せんずまんざい)である。この芸が鎌倉〜戦国時代に世俗化。歌舞伎・落語・ニワカ芝居・軽口・江州音頭(ごうしゅうおんど)など江戸時代の芸能文化を取り込み、明治になると大阪で掛け合いや雑芸に重きをおくスタイルが練り上げられ現在の形に近づいていく。大正時代初期には、東京にも漫才が持ち込まれる。

 そんな複雑さを持つ漫才の歴史が本書で紐解かれ整理されることによって、興味深い事実の数々を発見できる。たとえば、「東京らしい漫才」というと大声を出さないスタイリッシュな芸をイメージする人は多いと思うが、約100年前にそのルーツを見てとれる。昭和初期には、漫才は東京でも演芸の一つとして認められ人気を得るようになっていた。だが、それまで演芸の主役だった落語の優位は変わらない。漫才師たちは寄席に出演する時は、他ジャンルの演者に配慮して場を荒らさないよう、「邪魔にならない漫才」を展開していた。

 この頃から「アクが強いがボリュームのある上方」と「節度があるがインパクトに欠ける東京」という芸風の対比も生まれるが、東京漫才がガラパゴス的に発展を遂げたという訳でもない。1930年代前半に大阪で横山エンタツ・花菱アチャコが完成させ絶賛を浴びた「しゃべくり漫才」は、東京の芸人たちにも大きな影響を与えた。

  淡々とした話術と間で笑いを取るリーガル千太・万吉をはじめ、しゃべくりを導入するコンビが次々と現れる。漫才にまつわる言説についてファクトチェックの機能も果たす本書によると、しゃべくり漫才が当時から王道となり音曲漫才を脇へ押しやったとする説もあるが、実際そうではなかったらしい。三味線やバイオリンなどを持っての音楽・演奏を主体とする音曲漫才の人気の牙城は、しゃべくり漫才の流行をもってしても切り崩せなかったという。

 先日行われた若手漫才師日本一を決める「M-1グランプリ2023」の決勝。そこで歌ネタを披露したダンビラムーチョに対する、ナイツ・塙宣之の「寄席で一番今日やった中でウケるのは、ダンビラムーチョ」「桂子師匠はこういう歌の芸をすごく好かれてた(※1950年結成の内海桂子・好江は三味線漫才を得意としていた)」という審査コメントは、このような歴史を踏まえてのものだろう。

 本書の後半では、その塙が現在会長を務める漫才協会の歩みから、伝統的な漫才が養成所やオーディション出身の漫才師による発想・キャラ重視の漫才に主役を奪われていく過程も浮かび上がる。とはいえ本書に登場する昔の漫才師たちが、色褪せた存在に見えるかというと、決してそんなことはない。

 ネタの途中に殴り合い蹴飛ばし、最後には拍子木や棒で相手の頭をひっぱたくドツキ漫才を売りにしていた玉子屋源六・喜代志。面白おかしく餅を搗く江戸時代発祥の芸「曲杵」の披露を、自分たちの漫才の売りとした東亭花橘・玉子屋光子。旦那の方が顔のシワにキセルをぶら下げて踊る珍芸や奇術を得意としていたという夫婦漫才師、竹の家雀右衛門・小糸などなど。こうした歴史に埋もれていた東京漫才黎明期の漫才師たちは特にそうだが、どんなネタなのかどんな人となりだったのか、もっと知りたくなり幻想が膨らんでくる。

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