『小説版 ゴジラ-1.0』で描かれるクライマックスの真相ーー黒い雨と黒い痣が意味するものは?

 映画ではその後、降り出した黒い雨が敷島に降り注ぐ。これで感じ取れた人もいただろうが、小説で「急に真っ黒な不吉な雨が降り始めた」と書かれたことで、ただの雨ではない放射性物質を含んだ雨である可能性が強まり、浴びた敷島の健康が不安になる。

 銀座を蹂躙していったんは海に引き上げたゴジラを、敷島や吉岡秀隆が演じる元海軍工廠技術士官の野田、佐々木蔵之介が演じる掃海艇艦長の秋津らが参加した「海神(わだつみ)作戦」で殲滅しようとするシーンが、映画のクライマックスにあたる。死ぬことから逃げた元特攻隊員の敷島が、死に場所を求めているような意識を持っているところを神木がしっかりと演じている。映画が始まった当初の逡巡にまみれた雰囲気が抜けているところは、さすがの演技巧者ぶりといったところだ。

 敷島が最終的にどうなるかは、映画を見て確認してもらうとして、大団円と呼ぶにふさわしい結末を迎えたかに見えたシーンで、気になる描写が相次ぎ喜びと感動を不安へと一転させる。

 ひとつは、ゴジラによる銀座の騒乱を生き延びた人物に現れた黒い痣のようなもの。喜びと感動に流され見落としてしまった人もいるかもしれないその描写を、小説は「首筋に、黒い小さな痣のようなものが這い上がってきた」としっかりと指摘する。ただの後遺症とも違うその書きように、何かとんでもないことが始まろうとしているのかと思ってしまう。

 そして、「深海に沈んでいったバラバラになったゴジラの体……その中のひときわ大きな一欠片がドクンと鼓動した」という文章が、再起なり復活といった可能性に思い至らせる。振り返れば1954年の最初の『ゴジラ』でも、ラストシーンで志村喬演じる山根博士から、「あのゴジラが、最後の一匹とは思えない」というセリフが繰り出され、そして今に至る「ゴジラ」シリーズへと続いていった。

 「もし、水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が、また、世界のどこかに現れて来るかも知れない」という山根博士のセリフ自体は、核実験を続ける人類への警鐘だったのだろう。黒い痣も復活への予兆も、初代から受け継がれた大量破壊兵器を保持し続ける人類への警鐘なのかもしれないが、そうしたメッセージはメッセージとして受け止めつつ、物語は物語として、そうした”伏線”がどのような状況をもたらすかが気になってしまう。

 映画で映像によって示され、そして小説で言葉によって記された将来への期待はかなえられるのか。それにはまず、100万人の観客が『シン・ゴジラ』の550万人を超えてくることが必要だろう。

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