作家・中村うさぎ、ショッピングの女王から買い物依存症へ 地獄からの脱却と壮絶エピソード

「週刊文春」からの連載依頼に驚く

――「ザ・スニーカー」の連載を経て、「週刊文春」で『ショッピングの女王』の連載がスタートします。この連載が、中村先生の知名度を飛躍的に高めた記念碑的な作品です。

中村:「ザ・スニーカー」の買い物狂いのエッセイをまとめた『女狂い借金地獄』を「週刊文春」の女性編集者が読んでくれて、角川経由で手紙をくれたのです。私は角川系列でしか仕事したことなかったから、文藝春秋社なんておじいちゃんが読んで雑誌ばかり出しているところじゃん、と驚きましたよ。中村うさぎと御社の読者層は全然違うし、大丈夫なの、と。

――中村先生のはっちゃけた文体は、確かに「週刊文春」の中では異質ですよね。

中村:角川の頃は私の文章を同業者の人たちは知っていたし、読者はどんなことを書いても、こんな馬鹿な女がいるのかと笑って読んでくれたと思うんです。果たして、文春読者に受け入れてもらえるのか。こんな不真面目な女がいる、けしからん、と怒られるんじゃないかと思いました。

――まったく畑違いの出版社からの依頼ということで、中村先生も迷われたわけですね。周囲に相談はされましたか。

中村:角川の編集者に相談をしたら「大人向けの本は書いてもいいけれど、ラノベ、子ども向けほど売れませんよ。もし、中村さんがそっちにシフトしていくなら収入は激減しますよ」と言われました。結局、文春のオファーは受けたんだけれど、当面は二足の草鞋でした。コピーライターのときも二足の草鞋だったからできると思ったんだけれど、文春は週刊連載。完全になめてかかっていて、後悔したね(笑)。ラノベは書き下ろしだったし、それまで毎週締切がくる仕事なんて、やったことがなかったから。「ジャンプ」の作家は偉いなと思いましたよ。

荒俣宏さんの原稿の字が読めなくて編集部員が奇声をあげている

――『ショッピングの女王』の連載が始まった頃の、今だから話せるエピソードを教えていただきたいです。

中村:オファーを貰ってOKしたのはいいんだけれど、『東京ラブストーリー』を書いた脚本家のエッセイの連載が急遽決まったので、私の開始時期がずれたんですよ。しかも、その間、私にオファーを出した女性編集者が別の部署に異動になったんです。連載が始まったときは、私のエッセイを一度も読んだことがないオジサン編集者が担当になって、「中村さん、毎週面白いものを買ってエッセイを書いて」と言われたんです。

――方向性が全然違うものになっていますね。

中村:ちょっとそれは違うんじゃないと思ったけれど、無茶な依頼はコピーライターやゲーム雑誌の仕事で慣れていたし、一応理解はしました。原稿代とは別に、毎週1万円の物品代を上乗せするといわれたので、入浴剤とか、人間工学に基づいて設計された北欧製の椅子なんかを買って感想を書くみたいなことをやったんだけれど、私もそんなエッセイなんて書きたくないし、ネタ切れに陥ってくるわけ。しょうがないから編集者に話をして、角川時代と同じ方向性に変えたんですよ。ここから本領が発揮できましたね。シャネルの受注会の話とか、フェンディのマタギにしか見えない服の話を書き始めた頃から、面白がってくれる人が一気に増えました。

――試行錯誤を重ねながら文春の仕事をこなされたんですね。

中村:文春と角川の編集部はまったく別物でしたね。連載が始まる前、文春に「原稿の受け渡しはフロッピーでいい?」と聞いたら、編集者から「うちはパソコンが無いんで…」と言われたんですよ。角川は90年代初めくらいからパソコンを使いこなしていた編集者が多かったのに、文春の編集部には90年代後半でもパソコンを使える編集者がほとんどいなくて、実質的にアナログだったんですね。データ納品をごり押ししても悪いと思った私はパソコンで原稿を書いて、一字一句原稿用紙に書き写して渡したんです。笑っちゃうよね。手書きをパソコンで入力するならわかるけど、その逆はないだろと(笑)。というのも、文春が当時は抱えている作家さんは、ほとんどが手書きだったんだよね。

――興味深いですね。アナログからデジタルに移行する過渡期がわかる貴重な証言です。

中村:手書きで思い出したんだけれど、メディアワークスの編集部で、荒俣宏さんの原稿の字が読めなくて編集部員が奇声をあげる光景に遭遇したことがあります。絶滅危惧種の動物を見るみたいに、「見てこれ!」と編集者が群がって原稿をのぞき込んでいました。私も見たんだけどめっちゃ読みにくくて、なんだこれ、みたいな原稿だった(笑)。ほとんど外国語みたいだったもん。メディアワークスは大混乱だったけど、文春の人たちはそういう作家の物凄い筆跡の原稿をもらって入稿していたんですよね。

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