金原ひとみ「泣いて怒って悩んで逡巡し続けながら幸せに生きてほしい」 他者の視点から描いた新刊小説『腹を空かせた勇者ども』

 金原ひとみの新刊小説『腹を空かせた勇者ども』(河出書房新社)の主人公は、中学生の玲奈。不倫する母親と、それを容認する父親と3人で暮らす彼女は、「この世に小説が存在していることを知らないような愛しい陽キャの小説を書きました」と金原自身がコメントを寄せるとおり、理屈で考えるよりも本能で動くタイプの体育会系少女。そんな彼女を主軸に描かれるコロナ禍の青春小説は、どのように生まれたのか。(立花もも)

どこまでだったらわかりあえるか、許せるか


――これまでの小説とはひと味違う青春小説で、一気に読んでしまいました。なぜ中学生を主人公に今作を描こうと思ったのでしょう。

金原:まず、コロナ禍を若者の視点で描きたいという思いがありました。私の長女が中学にあがるタイミングで緊急事態宣言が出され、入学式もできず、オンラインで初めての顔合わせをしたり、という感じで、慣れない状況で学校側の手際も悪いし、心配していたんですよね。

 ところが、いざ学校に通い始めてみると、当たり前のようにどんどん友達をつくり、行動が制限されるなかでも、たくましく日常を生きて、友達との仲も深めていった。それを見て、コロナ禍で倦んでいる大人たちの側からだけでなく、彼女たちから見た光景も描かないといけないような気がしたんです。

――同時期に連載していた『デクリネゾン』(2022年8月刊行)は、小説家の主人公が自分とは真逆のタイプの娘との関係に戸惑う姿が描かれていました。玲奈の母親は小説家ではなく、映画配給会社に勤務していますが、関係性は似ていますよね。

金原:そうですね。実際、私の長女は『デクリネゾン』で描いた娘や玲奈のようなタイプで、批評性をもたない、私の理解からはいちばん遠い存在なんです。私は「自分はこういう人間」という認識がはっきりしているし、合わない人とは無理に付きあわず、ばっさり切り捨ててきました。

 でも、相手が我が子となるとそうはいかない。やっぱり対話をしたいし、歩み寄りたい。その試行錯誤を娘側から描くことで、彼女が抱いているであろう疑問や不信感が以前より理解できたような気がします。お互いに違和感を抱えながらも、共存していくことはできるのだ、とも。

――玲奈の母親が、「玲奈を通じてこれまで軽蔑してきた人たちのことを少しずつ認められるようになってきた」というセリフが、すごくいいなと思いました。人は、大切だと思える他者を通じて、世界を受容していくのだなあ、と。

金原:本質的にわかりあえない相手でも、一部共鳴できるところはある、という経験を私自身が重ねてきたことも大きかったのだと思います。私自身、自分の母親が圧倒的な他者であると感じていて、自分とは別の生きものだと思うことで、どうにかやり過ごしてきたところがあります。だからこそ、自分から遠い他者への嫌悪感も、若い頃はとくに激しかった。

 だけど、たとえばフランスに住んでいたとき、思想的には全く相容れないけど、ごはんの趣味は合う、とか、お酒を飲むペースが近い、という相手に少なからず出会い、たったそれだけのことで仲良くできることもあるのだと知りました。娘に限らず、そうした相手との出会いを通じて、これまで切り捨ててきたものを少しずつ取り戻しているような感覚があるんですよね。

――それが物語にも反映されている。

金原:そうですね。「共有したい」という期待ではなく、「どこまでだったらわかりあえるか」「どこまでだったら許せるか」という諦めと希望の塩梅を、物語を通じて探っていきたい。そのためには、他者からは世界がどう見えているのか想像することが必要で、だからこそ玲奈の視点で物語を書くことに意味があったのだと思います。

「許せない」と断じてしまうのは楽だけど


――玲奈の周りには、母親だけでなく、すべてを理解することはできない他者が溢れていますよね。たとえばコンビニの店員である中国人留学生のイーイー。小学校の同級生の駿くん。親友で同級生のミナミとヨリヨリ。問題なく仲良くしていたはずの彼らと、コロナ禍で家庭の事情が変わったことにより、すれ違う瞬間も増えていきます。

金原:人によってそれぞれ見えている世界が違う、ということを浮き彫りにしたのがコロナ禍だったと思うんです。それこそ、わかりあえていると思っていた相手に対して「そういう人だったんだ」と驚かされたり、自分自身に対しても「こういう考え方をする人間だったのか」と気づかされたり。平和を望んでいる人同士でもすれ違ってぶつかりあう、その必然的な瞬間も書きたかったことの一つですね。

――実家の食堂がコロナで経営難に陥ったとき、友達とごはんを食べに行った玲奈に、駿くんが同情するなと怒る場面がありました。そんなつもりはなかったという玲奈に、母親が、怒るほうが楽なのだと自身の経験を語る場面も、すごくよかったです。

金原:あそこで母親が語っていることは、実は私自身が経験したことでもあるんですよ。フェスで席の取り合いになって、相手の言い分は間違っていないんだけど、ルールを押し付けられることや、我慢を強いられることに、パンドラの箱が開いたかのような爆発的な怒りを感じたんです。そこで玲奈の母親と同じように、物騒に相手を加害する妄想までしてしまい、「自分が怖いし、人間が怖い」って思ったんですよね。これは書かないと、とも(笑)。

――確かにめちゃくちゃ物騒でしたけど、ああいう怒りが炸裂する瞬間ってあるよなあ、と思いながら読んでいました。

金原:そこで、どうして自分がこれほどまでに相手を殺してやりたいとまで憎んでしまうのか、いったん冷静に考えてみると、自分自身のなかに見えてくるものがあるんですよね。ああ、やっぱり人は、他者を通じて自分を見るんだ、と思いました。母親が席とり女こそ思いやらなきゃいけない、と思ったように、激しい怒りを感じた相手のことこそ、受容しなければならないのだろうとも。

 「許せない」と断じてしまうのは楽だけど、その先に待っているのは、自分の正義を疑わない老害じゃないですか。そのときの情景を小説に映し出すことでより客観的になれたところもありました。怒りに身を任せてしまっている人、それだけでなく悲しみや執着など、一つの感情に突き動かされてしまう人は、一度文章を書いてみたらいいんじゃないかと思います。

――怒るきっかけを与えられたとたん、理不尽のすべてをその人のせいにしてしまうことってありますよね。実はその怒りの対象は、相手じゃないということは確かに多い気がします。

金原:怒る以外に道がなくなっているんですよね。自分を顧みることもできない行き止まりにぶち当たっている。そういうときは、無理にでも視点を別の場所にずらすことでしか、解決策を見出せないのだと思います。コロナ禍でそういう怒りに駆られた人を見かけるたび、みんなもうちょっと「自分」から離れたほうがいいんだろうな、と思いました。シューティングゲームでいうところの、FPSではなくTPSに切り替えるような感じです。

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