バンド・デシネだけではない、”ヨーロッパ漫画”の奥深さ『秒速5000km』が描く色褪せない”時代”の記憶

『秒速5000km』の作者であるマヌエレ・フィオール

  先ごろマガジンハウスから、マヌエレ・フィオールのグラフィック・ノヴェル、『秒速5000km』の邦訳版が刊行された(栗原俊秀、ディエゴ・マルティーナ訳)。

 マヌエレ・フィオールは、1975年、イタリア生まれ。少年時代はアメコミを愛読し、大学卒業後はドイツで建築の仕事をしながら漫画の習作を続けていたという異才だが、2011年、本作にてアングレーム国際漫画祭最優秀作品賞を受賞した。

また、2017年に刊行された伊坂幸太郎の絵本『クリスマスを探偵と』では、作画を担当している。

 言葉に頼らず、“色”でキャラクターの感情や舞台の変化を描く

 『秒速5000km』は、イタリアのとある街に、1 人の美しい少女が引っ越して来た場面で幕を開ける。そして、その様子を別の部屋から覗いている思春期の男子が2人――。

  物語は、そこから、彼らの20年にわたるある種の三角関係が断片的に描かれていくことになるのだが、軸となるのは、ヒロイン・ルチアと、やがて考古学者になる秀才・ピエロの恋愛である(もう1人の男子の名はニコラ)。

  とはいえ、このルチアとピエロが情熱的に愛し合うような場面はほとんど出てこない。つまり、本作で主に描かれているのは、1つの恋愛が終わった後の――しかし、心のどこかでその恋を引きずりながら年齢を重ねている2人の男女(ともう1人)の姿なのだ。

  マヌエレ・フィオールは、このほろ苦いラブ・ストーリーを、全編美しい水彩画のコマの連なりとして描き切った(140ページ、オールカラー)。

  特筆すべきは、説明的なナレーションやモノローグを一切排し、登場人物たちの感情を“色”の変化で表わしているところだろうか。たとえば、物語の序盤――3人の男女の出会いを描いたパートでは、“草木の芽生え”を象徴する黄緑色が、また、大人になった彼らの内面が激しく揺れ動く場面では、赤や紫が基調色として用いられている。

  さらには、そうした感情の表現だけでなく、舞台の変化についても、ノルウェーでは青、エジプトでは土色というように、“色”でそれぞれの場所のイメージが塗り分けられている(当然、舞台の変化は、年月の経過をも表わしている場合が少なくない)。

※以下、物語の終盤の展開について触れています。未読の方はご注意ください。(筆者)

何度でも繰り返し読みたい“人生の書”

  物語の終盤で、それぞれ別の人生を歩んできたピエロとルチアは再会する。一瞬、心の中で燻っていた“何か”が再燃しそうになるが、結局中年になった2人が昔のような関係に戻ることはない。

  しかし、本作の読後感は、決して暗いものではない。それはたぶん、エピローグで再び“黄緑色の時代”の場面が挿入されているからだろう。そう、誰の心の奥にもある“色褪せない時代”の記憶――それが物語の最初と最後に円環構造で配置されているからこそ、本作は何度でも繰り返し読みたい“人生の書”になっているのだと私は思う。

  ちなみに、謎めいた『秒速5000km』というタイトルは、大人になったピエロが暮らしているエジプトとルチアがいるオスロ(ノルウェーの首都)の物理的な距離と、国際電話をかけた際に起きるタイムラグ(=1秒)を意味するものである(この“1秒のズレ”という設定も、互いを気にしながらも再び結ばれることのない2人の関係を表わしていて、うまいと思う)。

  いずれにせよ、イタリア出身のアーティストが描いた本作を読めば、「ヨーロッパの漫画」と一口にいっても、フランス、ベルギーを中心に展開されているBD(バンド・デシネ)だけではない、ということがあらためてよくわかるのではないだろうか。

関連記事