宇野常寛×福嶋亮大が語る、Web3と批評的言説のこれから 「人類社会の“時差”を意識することが重要」

昆虫と融合して生きていくこと

宇野:その話でいうと『砂漠と異人たち』は、オタク論でもあるわけです。

福嶋:最初にも言ったように仮面ライダーとだぶるしね。

宇野:「仮面ライダー」という言葉は一言も出さずに書いたのだけれど、実はこの本の結論の一つである「虫の眼」を持つ主体というのは、一言で言うと仮面ライダーなんですよね。

福嶋:それはわかります。

宇野:仮面ライダーは、バッタなど異生物と機械を人間と融合して作られたサイボーグです。石ノ森章太郎はサイボーグを成長しない身体として描いた作家で、その成長しない美少年のイメージ(島村ジョー)は24年組の少女漫画家たちの性規範から解放されたキャラクターに大きな影響を与えていくのだけれど、石ノ森自身がたどり着いたその究極系の一つが仮面ライダーだった。要するに、成長しない代わりに虫と融合している。アシスタントだった永井豪は『デビルマン』でその異種との融合というモチーフに、性的な欲望を重ね合わせていくのだけど、石ノ森はむしろ性を脱臭する。それどころか、自意識やエゴを強化するのではなくて、全然別のものと融合することによって、ハイブリットの主体になるということをやっているわけです。同時に永井は『マジンガーZ』で機械による身体拡張で男性性を補填するというモデルを提示するのだけれど、僕はいま、参照されるべきは仮面ライダーのモデルだと思っているわけです。しかし、「現代人がアラビアのロレンス問題を解決するときに、最も求められる主体は仮面ライダーだ!」と言ったら、さすがに頭のおかしい本だと思われるので、そう書かなかった(笑)。

 これはちょっとしたオタク論でもあって、オタクは自分の外側に強烈な愛着を持つものがあって、自分のことはどうでもよくなっちゃうところがある。圧倒的に美しい存在にただただひれ伏す。それで無限に快楽が溢れてくる。そうすると、相互評価などすべてがどうでもよくなって、強制的に時間的に自立してしまう。ただ、そのまま突き進むと、本当にやばいやつになるかもしれない(笑)。

福嶋:砂漠に行ってバイク事故で死んだロレンスに対して、スピルバーグはピカピカと光る圧倒的なものに吸い込まれた後で、やっぱり地球にステイするという順序になる。バイクや宇宙船に乗る代わりに、自転車に乗るというのが『E.T.』の選択だった。

 でも日本人の場合は、というか石ノ森章太郎の場合は、地球にステイしながら昆虫と融合する。ステイするとは昆虫と共に生きることであると。そういうところまでいくのが面白いね。

宇野:スピルバーグは、昆虫と融合せずに、歴史構築のほうに行っちゃった。自分が肯定できるアメリカの物語を、虚構の中で反復しようとする。それは彼が虫の眼を持つことができなかったからだというのが僕の考えです。

福嶋:むしろ砂漠でバッタとかサソリと一体化していくことが大事というね。

宇野:そうですね。実際に僕はこの本を書きながら、毎朝、近所の森に通うようになった。

福嶋:内側からポキポキ関節を外していくみたいなアプローチが大事かなと最近思うんですね。今後はそういうスタイルを模索するつもりです。

宇野:雑誌『モノノメ2』別冊付録の対談で福嶋さんからもらった「庭」というキーワードがまさにそういうアプローチですね。『砂漠と異人たち』でも、以下のように書いていました。

“「庭」にはさまざまな植物が生え、動物たちが暮らしている。砂場があり、岩場があり、森があり、池がある。これらのものに触れるとき、人間の身体は多様な性質を発揮する。少なくともプラットフォーム上で承認を交換するときよりも、圧倒的に多様に身体を働かせ、それによって多様な欲望を抱く。人間の身体が発動する機能と、そこに生じる欲望は、「庭」にうごめく事物の多様さに比例するのだ。”

“プラットフォームのもたらす相互評価のゲームから逃れるためには、そこに多様な身体が、人間外の存在がひしめいている必要がある。ゲームのプレイに参加しない、できない、する必要のない身体が、事物が溢れていること、そして人間がそれらの事物とのコミュニケーションによって否応なく変化し、ゲームの外側に逸脱してしまうこと。それが「庭」としての「実空間」のアドバンテージだ。”

 結局、いかにして、プラットフォームではなくて、庭にしていくかが大事だと思います。

福嶋:だいたいの結論が出たところで終わりましょう(笑)。

■書籍情報
『砂漠と異人たち』
宇野常寛 著
発売:10月20日
価格:2,090円(税込)
出版社:朝日新聞出版

『書物というウイルス 21世紀思想の前線』
福嶋亮大 著
発売:10月12日
価格:2,750円(税込)
出版社:株式会社blueprint

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