福嶋亮大 × 樋口恭介が語る、ネットワーク社会における批評家のあり方 「宇宙人とか天使のような視点から書く必要がある」

 批評家・福嶋亮大による新刊『書物というウイルス 21世紀思想の前線』(blueprint/10月12日発売)の発売を記念して、10月5日に代官山蔦屋書店にて、SF作家・樋口恭介との対談イベント「書評が映し出すもの」が開催された。

福嶋亮大『書物というウイルス』(blueprint)

 『書物というウイルス』は、ミシェル・ウエルベック『セロトニン』、マルクス・ガブリエル『新実存主義』、村上春樹『ドライブ・マイ・カー』、劉慈欣『三体』、スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』など、主にこの10年間に日本で刊行された文芸書および思想書を題材として、思考の《現在地》を描き出すことを目指した書評集だ。批評家の浅田彰は、本書の帯に「あらかじめ用意した理論体系に都合のいい例を当てはめるのではない。多種多様な書物を、各々の文脈を考慮して批評し、そのコラージュによって大きな構図を浮かび上がらせる。優れた批評家にしか描けない、これは驚きと発見に満ちた時代精神の天気図だ」と推薦文を寄せている。

 編著『異常論文』や書評・エッセイ集『すべて名もなき未来』で知られる樋口恭介は、本書をどのように読んだのか。注目の著者二人による初対談のレポートをお届けする。(編集部)

批評家は「誰でもない人間」として発話する

左、樋口恭介。右、福嶋亮大。

樋口:福嶋さんの新刊『書物というウイルス 21世紀思想の前線』を拝読いたしました。単純に書評を並べただけではなく、ある書評で提示された論点がそのまま次の書評へ引き継がれ、別の角度から論じられるなど、それぞれの書物が一つのある巨大な物語を紡いでいる、あるいは相対化しあうことで一つの物語の複数の側面を可視化しているかのような構成が特徴で、あたかも短編連作の長編を読んでいるような印象を受けました。

 そういう本ですので、タイトルにもある「ウイルス」と「前線」というキーワードは非常に重要な象徴を担っていますね。普通の書評なら「この本にはこういうことが書かれていて、ここが面白い」と終わらせてしまうところを、本書では書物の潜在的な可能性を引き出し、その書物が抱える別のあり方を提示するなど、変容や変化を促そうとするところがある。我々がウイルスに翻弄されている状況ともリンクしていて、その論じ方に批評家としての姿勢を見ました。もう一つ、前線というキーワードは、天気予報でいう「梅雨前線」などの前線をメタファーとして使っていて、いろいろな勢力が拮抗し合うカオス的な緊張関係を説明したものです。まえがきにもあるように、本来繋がるはずのないもの――例えば古井由吉とマイケル・サンデルなど――を併せて論じることで、その緊張関係のあり方を浮き彫りにしている。タイトルに込められたメッセージを念頭に置いて全体を読んでいくと、21世紀の思想にある緊張の構造が頭の中に生成されていって、それがとても面白いと感じました。

福嶋:丁寧に読んでいただいてありがとうございます。実は年下の方と対談するのはたぶん初めてで、今日は新鮮な気持ちです。日本社会は全体に新陳代謝が悪くなっていて、僕なんてもう40歳を超えているから全然若くないんですが、なぜかいつまでも周りは年上だらけという…(笑)。

 それとも関わるけど、アメリカのリバタリアン経済学者タイラー・コーエンは、現状満足階級――つまり口では変革を説きながら、実際には現状維持を望んでいる人々こそが現在の主流派であると指摘しています。分かりやすく言えば、コメンテーターがテレビで「分断を超えなければいけない」と説きつつ、放送が終わればタクシーで港区のセキュリティ完備のタワーマンションに帰っていくみたいな状況ですね。意識のレベルでは分断を良心的に嘆きながら、存在のレベルではむしろ階層の分断を強化している。要は言っていることとやっていることが違うわけです。これはおそらく世界中で起こっていることで、意識と存在のズレはますます深刻化している。小林秀雄以来の日本の批評というのは、まさにこのズレに照明を当てようとする営みです。

 樋口さんが的確に紹介してくださったように、今回は書評集として気象学的な「前線」を仮構するアプローチを選びました。そもそも、批評はいま完全に冬の時代にあるので、冬眠して時期を待つしかないんですが、そこで大事なのは持続性なんです。どのみち一発では勝負がつかないから、時間をかけて一歩ずつ歩んでいくしかない。ただ、同じ歩き方ではすぐに倒れてしまうので、歩き方というか書き方そのものをたえず発明し続けなければいけない。今回の本はその実験の一つです。

樋口:どの書物とも距離を置いていて、一般的に賞賛されているような書物も是々非々で、現代の言論状況ではある種辛口とも受け取れるような淡々とした語り口で批評していますね。

福嶋:批評家というのは究極的には《誰でもない人間》として発話するものだと思います。ある特定の立場、特定のアイデンティティを根拠として発話するのが現在の言説の主流だけれど、批評にはそういう特殊な立場から離脱しようとする運動が含まれています。さっき言ったように、自分はこれこれの人間だという意識は、必ず存在とはズレるからです。このズレに憑依されながら、なお普遍的なものを志向する。それが批評というものです。

 しかし昨今は、そういう立場はいちばん胡散臭く見られがちです。普遍主義は個別の特殊な立場を抹殺する暴力的なものだとみなされている。この本でも紹介したボリス・グロイスが書いているけれども、ジュリアン・アサンジに象徴される普遍主義者は、胡散臭い犯罪者や陰謀論者として忌み嫌われる運命にあるんですね。もちろん、これまで割を食っていた人々が特殊なアイデンティティで武装するのは自然なことだし、それが政治的な効果をもって状況を変えることもある。しかし、やはりこの本で紹介したフランシス・フクヤマが指摘するように、アイデンティティの闘争には妥協の余地がなく、行き着くところまで行き着くしかない。アメリカで言えば、共和党と民主党はもはやまともに対話できない。だからこそ、時代錯誤に見えるかもしれないけれど、どこかで特定の立場を解除していく、そして誰でもない存在――メタフォリカルに言えば宇宙人とか天使のような視点から書く必要がある。

福嶋亮大『神話が考える ネットワーク社会の文化論』(青土社)

樋口:僕もその意味では時代錯誤なタイプかもしれません(笑)。今はある党派に属する著者がその党派らしいことを書くと、その集団に属する読者がそのまま支持して、それがアテンションを集めて自己組織化し再強化していくというような閉鎖系のメカニズムが機能している。それはそれで言葉の持つ一つの機能ですので、全否定するわけではありませんが、あまり楽しいものではありません。一方「前線」を示すこの本では、全然関係ないもの同士がリンクされることが前提となっていることが面白くて、意外性が強制的に導入されるフレームワークができている。情報的交通事故が起きるようなアルゴリズムがあらかじめ組み上げられていて、そのアルゴリズムに則って論じていくと、自動的に異質なネットワークが出来上がるような感じになっていて、党派も何もあったもんじゃないんですね。

 思い返すと福嶋さんは『神話が考える ネットワーク社会の文化論』でデビューしています。同書では、あるアルゴリズムが走っている情報環境の中に、カオスティックに情報が放り込まれていって、いつの間にか自己生成して出会うはずのなかったデータ同士が出会い、作られることのなかったコンテンツが生まれてくるということを、実例を示しながら論じていました。今回の福嶋さんの試みは、普遍主義というアティテュードで、異質なものを出会わせるアルゴリズムを自ら作り上げたものだと感じていて、そういう点ではデビュー当時からスタンスが一貫しているという指摘もできるかもしれません。

福嶋:僕は父親がエンジニアということもあって、基本的な発想のベースが工学系なんです。文学というのも、一種の言語的な計算機として理解しています。だから、『神話が考える』のような、アルゴリズムの想像力についての本でデビューしたのですが、それにも限界があると感じていました。『書物というウイルス』では、樋口さんがおっしゃってくれた通り、本の生態系を設定して、それぞれの本の主張がぶつかり合うように演出しました。いろいろな本が平和的に共存するのではなく、ギャップがあったり、軋みがあったり、雑音までも拾い上げるような形で構築しています。アルゴリズム的なものは、どうしても雑音を消していくところがあって、なかなか本当のカオスには至らないからです。

 要するに、カオスの性質を掴みきれていなかったことが問題です。ハイデッガーはニーチェ論で、カオスはたんなる混乱ではなく「生の過剰」だと言っています。でも、今のカオスの理解はむしろ「混乱」と同じになっていますね。お祭り騒ぎでカオスらしきものが発生し、社会に一瞬裂け目が走ったとしても、それはすぐに飽きられてしまう。カオス=混乱のモデルは人間の適応力にあっさり負けてしまうということを見定められていなかった。

樋口:当時考えていたアルゴリズムにプラスアルファの工夫を加えているわけですね。

福嶋:古い話で恐縮ですけど、指揮者のフルトヴェングラーが、優れた音楽はカオスを内側に含むと言っているんですね。そして、カオスを内的に引き受けるためにこそ、強固な古典的なスタイルが必要なんだ、と。実際、音楽って一音でも間違えたら一気に崩落しかねない危うさがあるでしょう。それをぎりぎりのところでつなぎとめることで、はじめてカオスの力が聴衆に伝わる。昔の僕は、そういうことをまったくわかっていなかったなと痛感しています。『書物というウイルス』は、文体のスピード感は常に大事にしていますけれども、悪ふざけはなしに、いわばクラシカルなスタイルで書いたつもりです。そうじゃないとむしろカオスは捕捉できない。

樋口:なるほど。書物を巡るカオスティックな状況をキャッチするためには、むしろ格式ある文体が必要であると。

福嶋:音楽の比喩で言うと、批評はやはり演奏に近いと思います。作品という楽譜が与えられて、その楽譜の無意識の構造をあぶり出したり、楽譜そのものを組み合わせたりするのが批評の役割です。あと、それとも関わりますが、批評にはちょっとオカルト的な部分があって、いわば「死後の生」を信じていないとできないところがある。作品は形になった時点でいわば死んでいるわけだけど、批評はそこに死後の生の時間を与えていくものなんです。シュレーゲルやノヴァーリスらドイツ・ロマン派の批評がまさにこのモデルです。死後の生にいかにリアリティを感じられるかというところに、もの書きのセンスが出る気がします。

樋口:面白いですね。仰るようにテキストには永遠性があって引用の可能性があるからこそ、いま生きているものよりも優れている部分があるという言説が、かつての批評シーンにおいては主流だったと思います。しかし、SNS以降の現代シーンでは生きている人間とテキストがべったり張り付いている。作者がすごく注目を集められる人で、その人の主張が本と言うパッケージに閉じ込められていて、「作者がこういう人間だから、本もこういうものだよね」という予定調和な評価ばかりがまかり通るようになった。本は著者に従属するものになってしまっていて、著者の行動や著者をとりまくできごとが前提だから消費サイクルも早くて、時代の流れが変わればその本はもう顧られることはなく、闇の中に葬られて読まれなくなり、言及も批評的検討もされなくなる。テキストの永遠性が、人間の生や経済の循環の都合によって失われていることで、本が本当に単なる消費財となっている状況がある。

福嶋:それは重要なご指摘です。作家よりもテキストの方が多くを思考し、多くを計算していると考えないと批評はできないですね。そもそも、ポストモダンの批評はそういう話をしていたはずなんですが、昨今はどちらかと言うと、樋口さんがおっしゃった通り、作家主義の亡霊みたいなものが復活している。作家が善人だから本も良いとなり、作家が道徳的に悪と見なされると自動的に本も悪になる。しかし、そうなると、本自体が特定の部族に対する信号のようなものに成り下がっていくわけです。実態としては、今はほとんどの人が信号として本を受信しているだけで、中身はろくに読んでいない可能性があるでしょう。

樋口:そうですね。書物が同族への信号になってしまっているというのは、僕も感じるところです。

福嶋:スティーヴン・ピンカーも書いていたけど、人間は真実を求める生き物ではなく、むしろ同族でどう評価されるのかを気にかける生き物なんです。それは昔からずっとそうなんですが、インターネットによってさらにはっきりしてしまった。しかし、書物が単に信号になってしまうと、書くほうもだんだんやる気がなくなってくるでしょう。もちろん、かえってやる気満々になっていく書き手や編集者もいるでしょうが、それは明らかにダメな人です(笑)。だからこそ、部族主義を超える批評をちゃんと持続していくのが重要ですね。

 あと、ウェブに関して言うと、進歩は実はけっこう飽和している気もするんですね。Twitter社の社員数なんてせいぜい7000人くらい(編注:イベント開催時)なわけで、自動車産業や電機メーカーなんかに比べると圧倒的に少ない。昨今はメタバースが持て囃されているけれど、これは明らかに誇大広告なので、実態としてはそこまで巨大な産業にはならないと思う。というか、技術的にまだまだ未熟なメタバースに異常な期待が寄せられていることそのものが、逆にウェブの停滞を物語っているわけです。

 タイラー・コーエンが書いているように、50年前から家の中の様子はそこまで大きく変わっていなくて、せいぜいスマホとPCが増えたくらいですよね。コーエンによれば、イノヴェーションががんがん起こっているというのも錯覚で、今はむしろ大停滞の時代です。インターネットやAIを、社会の成長を大きく促す打ち手の小槌みたいなものだと考えるのはおかしいと思う。だいたいこの対談の文字起こしだって、いまだに人力でやるわけです。僕は十年前には「十年後には文字起こしは全部機械がやるんだろう」と思っていたけど、いまだに実現されていない。AIが仕事の九割を奪うとか無茶苦茶なことを言っている人もいたけど、そんな未来がいったいいつ来るのかと(笑)。技術が進歩しているように見えるのは、それ自体が大いなる錯覚の可能性があります。

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