『キッパリ!』から『全裸監督』までベストセラー多数! 穂原俊二が明かす編集者人生「本は今生きている現実と必ずつながる」

 爆笑問題がオウム裁判から薬害エイズまで語り尽くした『爆笑問題の日本原論』(宝島社/1997年)、「新世紀の資本論」と評された橘玲『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎/2002年)、単行本が135万部を突破した上大岡トメによる異例の自己啓発本『キッパリ!―たった5分間で自分を変える方法』(幻冬舎/2004年)、村上隆が自らの芸術論を明かした『芸術起業論』(幻冬舎/2006年)、Netflixドラマ化で物議を醸した『全裸監督―村西とおる伝―』(太田出版/2016年のち新潮文庫)、最近では奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』(イースト・プレス/2021年)、小田嶋隆『東京四次元紀行』、斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』(ともにイースト・プレス/2022年)……。

 さまざまな出版社を渡り歩き、サブカルチャー、人文、アートとジャンルを横断しながら数多くのベストセラーを手がけてきた編集者・穂原俊二氏。出版業界では名を知られた人物ながら、編集者は黒子であるべきとの考えから、これまで表立って取材に応じることはなかった。リアルサウンド ブックでは、穂原氏が手がけた書籍を紹介するたびにインタビュー依頼を重ねて断られてきたが、今回はじめてその編集者人生について詳しく話を聞くことができた。80年代から編集者として一線を駆け抜けてきた穂原氏の話は、出版文化の記録としても貴重なものとなっているはずだ。(編集部)

参考:穂原俊二氏が手掛けてきた書籍の一覧は「転石堂書店」にて

雑誌の取材で誰にでも会えた時代

『サウンドール』1984年1月号

――編集者としてのキャリアはどのようにスタートしたのですか。

穂原:私は80年代はじめ、20歳からこの仕事をしています。最初は編集プロダクションで、ベネッセ(当時は福武書店)がやっていた『チャレンジ』という通信教育コンテンツの記者をしていました。1年ほど経ってから知人に誘われて学研から出ていた『サウンドール』というYMOのファン雑誌の編集をするようになりました。巻上公一さん、坂本龍一さん、矢野顕子さん、忌野清志郎さん、松任谷由実さんらの取材をしました。そのうちに群雄社出版から創刊された『MAZAR』という雑誌に関わるようになり、池田俊秀編集長がなんでもやらせてくださるので、会いたい人に会おうと取材ばかりしていました。編集部になぜかマガジンハウスの雑誌『ダカーポ』の電話帳があって、そこには著者たちの電話番号が載っているのです。村上春樹さんの番号もありました。当時はいきなり電話しても、「なんだお前は?」とは言われず、多くの方が真摯に対応してくださいました。

――サブカルチャーが盛り上がりつつある時代だったと思います。印象に残っている取材は。

穂原:呉智英さん、橋本治さん、水木しげるさん、吉本隆明さん、石岡瑛子さん、川田順造さん、東野芳明さん、赤瀬川原平さん、藤原新也さん、湯村輝彦さんなど。橋本治さんは3分の1頁くらいの小さな記事にも関わらず、累計6時間も話してくださいました。最寄りの駅を間違って1時間ほど遅れてしまったのに、わざわざ駅まで迎えにきてくださって。その上、私は写真を撮り忘れるという大失敗をしてしまい、後日改めて撮影に行ったのですが、そのときはなんとご飯までご馳走してくださいました。おひつに入った筍ご飯を自らよそって、お味噌汁と一緒に出してくださって、食べながら色々と話をしてくださいました。話の中身も含めて、そういう出来事は一生忘れられません。もちろん取材前は失礼のないように、インタビューする方の本をできる限り入手して、必死になって精読します。そのように20代は、尊敬する人の本を読み、質問項目をクリアするように会いに行って直接お話を伺い、まるでレポート提出のように記事にすることを繰り返していたような気がします。それで給料がもらえる、なんて面白い仕事なんだろうと思っていました。

 しばらくすると、知人から誘われて角川メディアオフィス(現KADOKAWA)のゲーム雑誌『コンプティーク』の編集に携わることになりました。ゲーム以外の頁を担当していたのですが、小田嶋隆さん、ジャガーさん、河崎実さんなどの連載を企画しました。80年代の後半から出版業界も徐々にバブルへと向かっていき、90年代にはかなり華やかな業界となっていました。編集長の佐藤辰男さん(のちのKADOKAWA社長)に話せば、ほぼすべて「面白いからやりなさい」と言われて、本当にやりたい放題でした。ロボコンプという体中、ゲーム機だらけのロボットを作ったり、ブルース・スターリングやサン・ラーのインタビューや、「わたしは真悟」連載時の楳図かずおさんとの対談シリーズをやったり、実相寺昭雄さんと団鬼六さんとで毎年、神楽坂の老舗旅館でエロ漫画のベスト10を決める会議をやったり、河崎実さんの連載では毎回、アイドルなどをインタビューするだけでなくPVを制作していました。YouTubeなんてないから、カット割りを紙面で見せるだけなんですけれど(笑)。その一つがジャガーさんの「だまってジャガーについてこい」で、今、Youtubeに転がっていますね。楽しいことばかりでした。

ーーその後、宝島社に入社した経緯を教えてください。

穂原:『コンプティーク』や創刊から関わった『コミックコンプ』の仕事は楽しかったんですけれど、アイドル撮影の仕事が多くなって、飽きはじめていました。そんな折に知人から「『宝島30』という雑誌を創刊するから紹介するよ」とお声がけしていただいたのがきっかけです。私は10代の頃から『宝島』と『別冊宝島』のファンで、特に初期の『別冊宝島』の編集長だった石井慎二さんを尊敬していたので「ぜひに!」と。そして、運良く石井さんが『宝島30』編集部に創刊準備から入れてくださいました。しばらくして、別冊宝島編集部から町山智浩さん、3代目の編集長として橘玲さんが移動してきました。上には書籍部に小川哲生さん、『宝島』編集部移動後は関川誠さんといった名編集者がいて、私はそんな先輩方から怒られまくっていました。石井さんは、リード文とかタイトルとか小見出しとか、誇張ではなく平気で20回くらい突き返してくるんです。ある年のクリスマス、社長のお誘いで編集部で荒木町のレストランに行ったのですが、私だけ席を立たされて石井さんから壮絶な糾弾を受けて、ありとあらゆることを批判されたなんてこともありました。隣で社長も「そうだ、そうだ、もっとやれ!」とか言っているし(笑)。地獄のクリスマスでした。

 それでも本作りは毎回が真剣勝負ということを徹底的にたたき込まれて、今でも本を作るさまざまな局面で、「これで大丈夫か。石井さんはOKをくれるだろうか」と必ずチェックするのが習い性になっています。これは後に所属する版元の優れた先輩方に対しても同じで、「○○さんはなんと言うだろうか。これではダメだしを食らうかな」と自問自答が体に染みついています。どの版元にも必ず優秀な人が少数いて、その人から学ぶ、ということをずっとやってきていると思っています。

出版社を渡り歩いて

『宝島30』1995年5月号

ーー90年代半ばの『宝島30』は「オウム真理教サリン疑惑」という特集を組むなど、かなり攻めた内容でした。

穂原:記事が過激で多方面から訴えられまくっていましたし、右翼が編集部に銃弾をぶちんだこともありました。でも、編集部の人間は面白がっていて、社長ももっとやれという感じでした。当時は出版社に勢いがあったから、糾弾すべきものは糾弾するというジャーナリストとしての姿勢があったのだと思います。95年は地下鉄サリン事件と阪神・淡路大震災があって、編集部は連日、不夜城。企画した連載「爆笑問題の日本原論」も絶好調でした。

 『宝島30』では、小林よしのりさんともお仕事させていただきました。私はデビュー作の『東大一直線』の大ファンで、『コンプティーク』に勝手にコーナーを作ってインタビューしたほどでした。小林さんに部落解放運動家の小森龍邦さんや石原慎太郎さんに会っていただいた企画は、まだ素朴な頃の『ゴーマニズム宣言』(幻冬舎文庫版4巻、5巻)で漫画化されています。太田光さん、みうらじゅんさん、浅羽通明さん、椹木野衣さん、春日武彦さん、リリー・フランキーさん、テリー伊藤さん、福田和也さんらとも知り合い、大いに影響を受けました。

ーー『宝島30』は刺激的な雑誌でしたが、1996年には休刊になってしまいます。

穂原:1995年に私は『宝島』に移動させられました。『宝島』では、金正日のそっくりさんを募集し、もっとも似ている人を選んで、人民服を着ていただき、「金正日極秘来日緊急記者会見」を開いたりしました。金正日に似ている人は多く、たくさんの応募がありました。テリー伊藤さんが「今、北朝鮮はどうなっているのか?」とそっくりさんに聞くだけの記者会見なんですが、ある米国一流新聞紙の記者が取材に来て、日本語を話しているそっくりさんを見て、激怒して帰っていきました(笑)。『宝島30』の編集も同時に携わっていたのですが、しばらくして廃刊となってしまいました。そこで前述の佐藤辰男さんに相談して、仲が良かった橘玲さんとともに当時のメディアワークス(現KADOKAWA)へと移籍しました。メディアワークスでもやりたい放題で、『爆笑問題の日本原論』シリーズや『EXPO70伝説 日本万国博覧会アンオフィシャル·ガイドブック』、杉作J太郎『ヤボテンとマシュマロ』、天久聖一『ドムーン』、ポール・クルーグマン著/山形浩生訳『クルーグマン教授の経済入門』(現在はちくま学芸文庫)などを編集しました。

橘玲『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎) 装幀:鈴木成一デザイン室

 4~5年ほど働いたところで、今度は面識のない幻冬舎の方から声がかかりました。実は出版社を作って独立しようと思っていた時期で、話も聞かずにお断りしたのですが、その後また丁寧な手書きの手紙が来たりして、会って話を伺いました。その話を橘玲氏にすると、「実は今、本を書いている。穂原くんが編集して幻冬舎から刊行してくれればいいんだけど」と言われて(笑)。独立の後ろ盾になってくださる方からも、「穂原くんは職人気質だから幻冬舎に行ったほうがいいんじゃないの」と言われて、結局は幻冬舎に入社することになりました。幻冬舎で出した、橘玲『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』はいきなり35万部のベストセラーになり、結局、14年間、在籍することになります。

――穂原さんは90年代後半から、他にもさまざまなベストセラー書籍を手掛けています。

大岡トメ『キッパリ!―たった5分間で自分を変える方法』(幻冬舎) 装幀:川名潤

穂原:宝島社から1997年に刊行した『爆笑問題の日本原論』が50万部(シリーズで250万部)で、幻冬舎では橘玲さんの本以降、2004年の上大岡トメ『キッパリ!』は135万部(「キッパリ」シリーズは文庫を含めると2017年時で250万部)、2003年の『趣都の誕生-萌える都市アキハバラ-』、2004年の前田建設工業『前田建設ファンタジー営業部』、2005年の三浦しをん『むかしのはなし』とゲッツ板谷『ワルボロ』、2006年の村上隆『芸術起業論』と大西巨人・のぞゑのぶひさ・岩田和博『神聖喜劇』、2007年のみうらじゅん『アウトドア般若心経』、2009年の宮台真司『日本の難点』が13万部、2014年の鈴木大介『最貧困女子』が9万部、賞をいただいたり映像化されたりしたものもあって話題となりました。『星星峡』という月刊の文芸PR誌の編集長になって、そこでは三浦しをんさん、会田誠さん、椹木野衣さん、安野モヨコさん、辛酸なめ子さん(幻冬舎Plus)らを企画して連載、直接の担当ではないですが、松井今朝子さん、恩田陸さんら幻冬舎初となる直木賞や本屋大賞などの受賞作も連載されていました。

――映像化といえば、ゲッツ板谷さんの『ワルボロ』や鈴木涼美さんの『身体を売ったらサヨウナラ』などのほか、近年では本橋信宏さんの『全裸監督 村西とおる伝』のNetflixドラマ化が衝撃的でした。

本橋信宏『全裸監督 村西とおる伝』(太田出版) 装幀:鈴木成一デザイン室

穂原:本橋さんは『宝島』本誌時代に連載コラムを依頼して以来のお付き合いです。「ポアもやむなし」という4分の1頁くらいの小さいコラムなんですが、そこまでやるか、というくらい全力でアンダーグラウンドな世界を取材しまくっていました。私の編集ではないですが、この連載の大部分は『にくいあんちくしょう―異端カリスマ列伝』(ちくま文庫)にまとめられています。楽しいことこの上なかったです。当時から「いつか村西さんの人生を総括する本を作ろう」と話していました。本橋さんの本は文庫も含めて数多く編集しましたが、私との関係も紆余曲折があった末に、ようやく太田出版で形になったのが『全裸監督 村西とおる伝』でした。同書は帯に書かれた「前科7犯、借金50億、求刑懲役370年」という数字のインパクトと「人生、死んでしまいたいときには下を見ろ! おれがいる。」というコピーが評判となり、俳優の山田孝之さんが「ぜひこの役をやりたい」と自ら名乗り出てくださいました。しかし、Netflixと仕事をするには、当然ながらアメリカの本社と契約を交わす必要があり、山のような契約書に目を通さなければいけない。ここで村上隆さんの『芸術闘争論』を参考として、太田出版の法務部が頑張ってくれて、なんとか2シーズンのドラマとして皆様に届けることができました。村西さんは苦労している法務担当の女性をいつの間にか「マドンナ!」と呼んでいましたね(笑)。太田出版では、田中真知さんとともに神戸の山奥に隠遁していた中田考さんに会いに行き、『私はなぜイスラーム教徒になったのか』や『クルアーンを読む』(橋爪大三郎さんとの共著)など一連のイスラーム関連の本、また安田理央さんの『痴女の誕生』『巨乳の誕生』『日本エロ本全史』、辛酸なめ子『ヌルラン』、岩井志麻子『嘘と人形』、春日武彦『鬱屈精神科医、占いにすがる』(現在は河出文庫)なども編集しました。

――太田出版の後は、サイゾー、イースト・プレスへと移っています。

小田嶋隆『東京四次元紀行』(イースト・プレス) 装幀:鈴木成一デザイン室

穂原:サイゾーには1年ほどしかいなかったのですが、和田秀樹『灘校物語』、澁谷果歩『AVについて女子が知っておくべきすべてのこと』、中田考&天川まなる『ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門』、小林哲夫『女子学生はどう闘ってきたのか』、島田裕巳『疫病退散』、小田嶋隆&武田砂鉄『災間の唄』などを編集しました。また美術史の集中講座、WHITE ROOMも始めています。その後、イースト・プレスから声をかけていただいて転職し、ドミニク・チェン『コモンズとしての日本近代文学』、春日武彦&穂村弘&ニコ・ニコルソン『ネコは言っている、ここで死ぬ定めではないと』、奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』、ジャガー『ジャガー自伝 みんな元気かぁ~~い?』、小田嶋隆『東京四次元紀行』、斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』、卯城竜太『活動芸術論』などを刊行しました。おかげさまでほとんど重版がかかっています。イースト・プレスの永田和泉社長や社内の助けと連携があってこそと感謝しています。

 ここでは仕方なく本を選んでお話していますが、自分がお手伝いした本はすべて1冊1冊、愛情があり、その時代とともにいいことも悪いことも思い出があって、大事なものです。どの本もどうしたらたくさんの人に読んでもらえるか、ということをいつも考えています。

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