宇佐見りん『くるまの娘』、柚木麻子『ついでにジェントルメン』……立花もも推薦! おすすめ新刊小説4選

 昨今発売された新刊小説の中から、ライターの立花ももがおすすめの作品を紹介する本企画。『推し、燃ゆ』で芥川賞を受賞した宇佐見りんの注目作『くるまの娘』から角田光代の重厚な長編新作『タラント』まで、幅広いラインナップでお届け!(編集部)

宇佐見りん『くるまの娘』(河出書房新社)

 家族とは、不可思議なものである。それぞれの家庭に、それぞれのルールがあって、みんなそれがあたりまえだと思っている。どんなに理不尽で苦痛をともなうものだったとしても、失われてしまうとどこかさみしいような気がしてしまうのは、家族のあたたかな記憶――それがたとえ一瞬の、偶然によってもたらされたものだったとしても――とも結びついているから、自分をかたちづくる愛情が失われたような気持ちになるからかもしれない。ああ違う、それは愛情ではなかった、あたたかな記憶でもなかった、と気づいて、親やきょうだいを捨てる覚悟で家を飛び出したのが『くるまの娘』に登場する主人公・かんこの兄だ。そして、まやかしだったとしても感じたぬくもりは手放したくない、家族を捨てたくなんてないと歯を食いしばりながら生きているのが、かんこだ。そのどちらも、間違っていない。正解ではないかもしれないが、それでも、誰にもその選択を咎めることなどできない。

 同じ場所で、同じ時間を過ごしながら、見えているものが違い、怒りや後悔の色も違うのに、なぜか負わされる傷だけは共有している。その一体感が重なれば重なるほど、家族という輪から抜け出せなくなっていく。はたからみれば幸せに満ちているように見える家族のなかにも、多かれ少なかれこの呪縛は根づいているのだろう。

 車が走り続ける限り、乗っている人に逃げ場はない。けれどタイミングさえ見計らえば、痛みを負うことを覚悟で飛び出すことはできる。けれど、かんこは逃げない。車を、降りない。閉鎖されたその空間でどうすれば生きていけるのか、降りるなら全員が解き放たれる形で降りたいと、願い続けている。その慟哭に似た祈りに、ぜひ文庫化された『かか』とあわせて触れていただきたい。

柚木麻子『ついでにジェントルメン』(文藝春秋)

 デビュー作以降、なかなか世に作品を出せずにいる若手小説家の女性が、文藝春秋社のラウンジで、創始者・菊池寛の銅像がしゃべりだすのを目の当たりにしてしまう。という、突飛な始まりを見せる第一話「Come Come KAN!!」で、担当編集者から理不尽なだめだしばかりを食らう彼女に菊池寛はこんなことを言う。「若い頃の苦労は買ってでもしろ、とか言うじゃない? 作家は幸せになっちゃおしまいとかさ。女の物書きは変わった恋愛をしろとかさ。でも、そんなの意味ないよ。貧乏して不幸になって恋愛したら、名作書けるの? 保証あるの? そういう精神論、一番意味ないとおもってんの。僕、義理人情とか根性論とか、大っ嫌い!」

 なんとも、痛快である。世の中には、根拠もないのに確たる正解みたいな顔をしたルールが溢れている。だけどそれってけっきょく、なんの意味があるの? 誰のためになってんの?  という厳しくもまっとうな問いかけを、柚木麻子は7つの短編を通じて突きつける。

 不倫の記憶を美化しすぎて現実を見失っている老ベストセラー作家。新入社員と本気の恋が始められると信じる既婚の中年男性。女性専用車両と戦う男。あしながおじさんのようになりたいと願う大学教授。唯一の女手である嫁が出て行って、生活に困るとついてきた舅。彼らはみな、心底の善意と優しさで女性に手を差し伸べようとするが、前提として抱く価値観やのっとっているルールが男基準すぎて、空回りばかりしている。だが、ジェントルメンたりえようと試行錯誤するより、行動の結果、ついでにジェントルメンっぽくなっていた、くらいでちょうどいいのだ。〝こうあるべき〟を捨て去ったとき、現実に光を見出すことができるのは彼らとて同じはずなのだから。

吉田恵里香『恋せぬふたり』(NHK出版)

 向田邦子賞を受賞した、高橋一生・岸井ゆきの主演ドラマを脚本家がみずから小説化したものである。ドラマでは基本的に岸井ゆきの演じる咲子(さくこ)の視点で統一されていたが、本作では高橋一生演じる高橋の視点もいりまじり「ああ、あのときこんなことを考えていたのか」と知れるのもドラマファンとしては嬉しいところ。

 高橋のブログをきっかけに、自分は「アロマンティック(他者に恋愛感情を抱かない指向)・アセクシャル(他者に性的に惹かれない指向)」なのではないかと自覚した咲子は、ともに「だからといって一人で生きていきたいわけじゃない」というジレンマを抱えた高橋と、恋愛感情を抜きにした家族になることをためしてみないか、ともちかけ同居生活を始めることとなる。傍からみたら二人は恋人同士にしか見えない二人が、結婚や子供をもつことはもちろん、触れ合うことすらない、という事実を周囲は受け止められない。「なんでこういう時って『こういう人もいる』『こういうこともある』で終われないのかな」という高橋のセリフが、ドラマと変わらず小説でも重たく響く。

 本書を読んでも(ドラマを観ても)、もしかしたら「アロマンティックもアセクシャルも全然意味がわからない」という人はいるかもしれない。納得したいために、明確な定義をさらに求めたくなるかもしれない。けれど、人は理屈と合理性だけでは生きていない。多角的に矛盾したものを抱えながら、いかに相手のそれを受容し手を取り合っていくかを模索することが、家族になるということなのだと小説を読んで改めて思う。ドラマを追体験したい人、ドラマを見逃した人、家族のありように迷いがある人は、ぜひ。

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