逢坂冬馬×モモコグミカンパニー『同志少女よ、敵を撃て』特別対談 「戦いが終わった後も人生は続く」

 「第11回アガサ・クリスティー賞」大賞受賞作にして、第166回直木賞候補作にも選出された逢坂冬馬のデビュー作『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房)が、ロシアのウクライナ侵攻を受けてさらに注目を集めている。第二次世界大戦の独ソ戦を舞台に、旧ソ連の小村に生まれた少女・セラフィマが狙撃兵となって戦場を駆け抜ける姿を描いた作品だ。逢坂冬馬は、16刷目の重版分の印税を難民支援機関「国連難民高等弁務官事務所」(UNHCR)に寄付している。

 主人公たちと近しい年代の読者は、同作をどう読んだのか。リアルサウンド ブックでは、BiSHのメンバーであり、3月19日に『御伽の国のみくる』(河出書房新社)で小説家デビューを果たしたモモコグミカンパニーを招き、逢坂冬馬との対談を行った。(編集部)

狙撃兵もまた一人の人間なんだと考えられた


モモコ:第二次世界大戦の独ソ戦を描いた『同志少女よ、敵を撃て』は今の時代ともリンクしていて、世界情勢に詳しくない私にとっても、戦争について考えるきっかけになりました。自分とはまったく別世界の話だと思っていたけれど、一人の16歳の少女の視点から描かれているから、登場人物たちの心情に寄り添って共感しながら読むことができたと思います。主人公のセラフィマは、もともと猟師として獲物を撃ったりはしていたけれど、ごく普通の女の子だったのが、止むに止まれぬ理由があって狙撃兵になって成り上がっていく。戦争は嫌だけれど、自分が生き残っていくためには戦わなければいけない。私とは住む世界が違う人の話だと思っていたのが、セラフィマの視点を通して、生きることってなんだろうとか、戦うってなんだろうとか、狙撃兵もまた一人の人間なんだということが考えられたのが大きかったです。教科書で世界史は習ったけれど、年号や政治的な意味合いを知っただけで、そこで人々がどんな想いを抱いていたのかまで想像することはできなかったので。

逢坂:ありがとうございます。そう仰っていただいて、作者としては嬉しい限りです。この小説で若い女性狙撃兵を主人公にしたのは、いろいろな立場の人に「自分だったらどう行動したのか」と戦争について考えてもらえるような作りにしたかったから。これまでの戦争小説では、戦友との絆を描いたり、兵士たちの団結を描いたものが多く、いわば男の物語がほとんどでした。しかし本作では、外交官を夢見ていた理想主義的な女の子が、気づけば人を殺した数を競い合うような狙撃兵となっていく。ごく普通の個人が前線に行き、戦争に同化していく。そういう人間の変化を描くことによって、戦争に絡めとられていく個人のあり方を描きたかったんです。モモコさんが仰るように、現在の歴史教育では年号や政治の話が中心とならざるを得ず、そこに生きている人間の姿が見えにくいものです。この本は、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』という膨大な女性兵士の聞き取り集が起点になっているのですが、このようなオーラル・ヒストリー(口述歴史)がいま改めて注目されているのは、まさにモモコさんが感じたような問題があるからだと思います。


モモコ:いま歴史を勉強している学生さんにも読んでほしいし、現在の世界情勢を不安に思っている方にも手に取ってほしいと思いました。登場人物それぞれに人間味があって、ウクライナ出身でコサックのオリガとか、カザフ人の猟師だったアヤとか、立場の違う人たちが同じ部隊にいるのも、すごく考えさせられます。臨場感があって、自分も戦場で狙われているような怖さを感じながらも、命の儚さや尊さについて思いを巡らせながら一気に読み進めてしまいました。

逢坂:オリガやアヤは特に読者からの反響が大きいキャラクターですね。いまモモコさんとお話ししていて思ったのは、この二人はすべてを語り得ないからこそ、読み手に深く印象を残すのかもしれません。彼女たちはなにを想って戦っていたのか、なにを求めていたのか、その動機が語られないまま世界からいなくなってしまいます。歴史は生還者によってしか語られないし、そこに悲哀があります。実際に独ソ戦で亡くなった人の数は膨大ですが、その声を聴くことはできません。特にオリガには、彼女たちの声に耳を傾けたいという想いを託した部分があります。

モモコ:私も少し調べたんですけれど、独ソ戦は「皆殺し戦争」という異名があるほどで、敵味方の区別もつかないような悲惨な状況だったそうですね。『同志少女よ、敵を撃て』でも、敵側の人と愛し合ってしまう人もいれば、味方なのに許せないような人もいたりして、簡単に割り切れるものではないんだなと感じました。勝ち負けとか、どちらが加害者でどちらが被害者とか、二極化して考えてしまいがちだけど、それほど単純な話ではない。

逢坂:敵と味方が入り乱れてしまう状況というのは、占領下で必ず生じるものです。だからこそ、敵と味方を二項対立だけで描くのではなく、境界線上にいる人間を描くことは意識しました。実際の独ソ戦は、二つの国がかつてないほど極限まで争った戦争です。普通はある程度の戦略的目標や政治的目標を達成したら戦争は終わるものですが、ドイツがモスクワを攻め落とそうとしたのに対して、ソ連は直接ドイツまで攻め込んで、ベルリンを攻め落とすところまで反撃している。そういう空前にして絶後の戦禍の中で、境界線上にいる人が揺れ動く姿を描くことも本作の狙いでした。

現代を生きる人たちに普遍的に訴えかける小説に


モモコ:BiSHは6人で活動しているグループで、私たちの関係性もただの友情ではなく、どちらかというと戦友という言葉がぴったりくる感じなので、よりのめり込んで『同志少女よ、敵を撃て』を読むことができたと思います。もちろん、セラフィマたちが置かれた状況とは全く違うけれど、それでも女の子同士で団結してなにかに立ち向かうときに生まれてくる感情はあって、そこがすごく共感できました。

逢坂:女性同士の連帯は、この小説を書くときに避けては通れない一大テーマになると覚悟したポイントでした。男性中心の社会の中で女性同士が連帯して戦う話はいろいろとありますが、この角度から戦争を描いた小説は本当にないし、そもそも組織的に女性兵士を実戦投入した例もほとんどありません。女性兵士を主人公にすることによって、現代を生きる人たちに普遍的に訴えかける小説にできるのではないかと考えました。男性が読んだときも、たとえばセラフィマの幼馴染であるミハイルの立場になり、自分だったらどう振る舞うかを考えることができる。そういう風に、誰もが自分に置き換えて考えてもらえるようにキャラクターを配置しています。

 よく言われることですが、戦争で虐殺を行う兵士たちは、家庭ではよき父親だったり、よき夫だったりすることも多い。それは戦争が彼を変えてしまうというより、軍隊に身を置いて大量殺戮の中に身を投じると、個人の倫理観では太刀打ちできない状況に追い込まれてしまうからなんです。自分の仲間を守ろうとしたときに、虐殺者にならなければいけない圧力がかかってくるのは、もしかしたら自分自身が殺されることよりも恐ろしいことかもしれません。

モモコ:私自身は、やっぱりセラフィマの立場で読みました。主人公で心情が一番しっかり描かれているからというのはもちろんあるのですが、戦場を経験していく中でハイになって歯止めが効かなくなってしまったり、葛藤の末に自らの決断を覆したりするところに人間味を感じて、この子が主人公だったからこそ、戦争の話なのに感情移入できたんだと思います。女の子ならではのあざとい罠で敵を倒すシーンも、ドキドキしながら読みました。

 一方でセラフィマの仇敵となるイェーガーは、ちょっと理解しにくい人物でした。作中で「狙撃兵にはそれぞれの物語があって、その物語を理解したものが勝つ」という趣旨のことが書かれていましたよね。どれだけ悪人に見えても、その人にはその人なりの物語があるというのは納得できます。でも、それが敵の物語となると、理解するのはめちゃくちゃ難しいことなんだなと、イェーガーの振る舞いを見て感じました。


逢坂:セラフィマにとってイェーガーは仇敵ですが、対をなす存在でもあって共通点も多くあります。それぞれに高い技術を持った狙撃兵で、敵もたくさん殺している。そして、イェーガーもまた人間らしい普通の感性を維持している。しかし、だからこそセラフィマの視点から見たイェーガーは憎らしく感じられるのだと思います。セラフィマは個人の倫理を貫こうとして破綻してしまいますが、イェーガーは個人の倫理を捨てないまま戦争に適合して勲章を得ている。憎むべき敵なんだけど、どうしようもなく人間臭くて、しかし戦闘となると変貌する。こういう人間は物語を読みにくいというか、個人の物語を切り離して行動できてしまうんです。最も恐るべきスナイパーは、きっとこういうタイプだと考えて設定を考えました。

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