川上未映子が語る、現代社会の茫洋とした怖さ 「みんな、自分が他人にしたことのほとんどを忘れている」
私は自分の身体から出られない
ーー『春のこわいもの』は、6編の短編で構成されています。「あなたの鼻がもう少し高ければ」は、整形手術の費用を稼ぐために“ギャラ飲み”のキャストに応募する女子大学生が主人公。「っていうか顔って、なんなの?」という一文に、外見に対する強迫観念が滲み出ているなと。
川上:こちらから見えているものと、他者からしか見えないものの関係がありますよね。初期のエッセイ(『世界クッキー』)にも書いたんですが、小さい頃、スーパーマーケットの遊技場でロボコン(『がんばれ!!ロボコン』)の遊具で遊んだときのことが記憶に残っています。ロボコンの赤い体のなかに入って、そこから外が見えるようになっていたんですが、そのとき「外の人からは、わたしは今、ロボコンに見えてるんだ」と思って。わたしからはいつもと同じようにお母さんの顔が見えているのに、あっちからはロボコンにしか見えない。それに驚いて、不安になって、あわててロボコンから出たんですけど、そのとき気づいたのは「ロボコンは出られたけど、身体からは出られない」ということでした。どうしたって自分の身体は脱げないし、外から見れば、わたしはこの身体でしかない。とてつもないルールだと思いました。
ーー「この身体からは逃れられない」という感覚はずっとあるんですか?
川上:あります。思春期になって初潮がはじまったり、病気をしたり、「いちばん身近な他者」であるという実感にも、角度がふえてきたように思います。この年齢になると「老い」ですよね。やっぱり身体からは逃れないし、精神と身体はつくづく不思議な関係です。
ーー「あなたの鼻がもう少し高ければ」では、“ギャラ飲み”を通し、外見によって稼げる金額が変わるという現実も描かれています。ルッキズムという言葉が浸透し、外見による価値をめぐる我々の意識も変化しているはずですが、一方で“きれいになりたい”という欲望も膨らみ続けている。このギャップも深刻だなと。
川上:ルッキズム批判やフェミニズムもそうですが、こうであるべきだ、という願いや理想と、現実とのギャップは大きいですね。SNSの使い方は人それぞれだけど、基本的に自分の問題意識にそった人たちの意見にふれることが多い。わたしの生活の今の人間関係は、子どもを通じて仲良くなった人たちがほとんどだけど、(結婚相手を)“主人”と呼ぶことに抵抗はない人が多いし、そもそもTwitterとか誰もやっていないんですよね。これは大変なことだ、と思っても、一歩外にでると誰にも通じなかったり。ほとんどのことが局所的にしか共有されないし、みんなが違うものを見ているんだなと感じます。
ーーそれぞれが違う地図を見て、違う世界を生きている。そういう状況があると、小説のなかで、読み手の共感を集める人物を造形するのはさらに難しくなりそうな気がします。
川上:そうですね……共感にもいろいろありますが、人物造形で苦労したことはあまりないかなあ。登場人物も、暗いとか苦しいとかぎりぎりとか言われることもあるんですけど、ぴんとこなくて……わたしとしては、これが通常運転だよなという感じかなあ。もちろんデフォルメされているし、焦点を絞ることで濃くはなりますけど、生きてるとだいたいこういう感じじゃないかな、というところから始まっています。
ーーなるほど。「ブルー・インク」の主人公は、高校の美術科の男子学生。友人の女生徒から受け取った学校で手紙をなくしてしまい、探すために夜中の校舎に忍び込みますが、手紙は見つからず、彼女は泣き出してしまう。そのとき彼は、なぜか彼女に対する怒りを感じ、そして、性的衝動を覚える。男性の攻撃性、性欲というものの根源を見せられた気がしました。
川上:フィクションと当事者性の問題は、自分が意識してもしなくても、いろんな結果にかかわってきますよね。わたし個人の感覚でいえば「あなたは女性ですか?」と聞かれたら「そうです」と答えられるし、社会的にも女性にカテゴライズされると思いますが、たとえば入眠時の意識がまだらになっていくあの感じとか、お腹がすいてるときとか、数をかぞえてるときとか、性を感じない、名づけようのない瞬間もたしかにあります。性に限らず、自己認識にはグラデーションがあって、それを言葉にするのは難しい。なのでわたしの書く登場人物は作中でいろいろ言いますが、少なくともわたしが書く段では「男性はこうじゃないか」「女性はこうなんです」「四十代はこんなです」というようなところから知ってることを書いてもあまり意味がないかなと思う。「ブルー・インク」も、一人称が“僕”である時点で社会性を帯びてしまうんだけど、「男の子ってこうだよね」ではなく、その瞬間と、その個人において現れるものを丁寧に描写したいなと思っています。