冤罪事件が起こってしまう構造的問題とは? 作家・安東能明 × ジャーナリスト・清水潔 特別対談

 昭和25年、静岡県西部の二俣町(現・浜松市)で起きた一家4人殺人事件。「二俣事件」とよばれるこの事件で、静岡県警はひとりの少年を逮捕したが、彼は裁判で無罪を主張する。1審、2審で死刑判決となるも、のちに最高裁で棄却され、少年は無罪となった日本初の冤罪事件として知られている――。

 ドラマ化された『撃てない警官』をはじめ、警察を舞台にした小説を数多く著し、人間の本質に迫ってきた作家・安東能明は、この「二俣事件」を丁寧に掘り起こした小説『蚕の王』を発表した。「なぜ冤罪は起きたのか」「真犯人はどこにいるのか」に迫った、ドキュメンタリー・タッチの作品だ。

 リアルサウンド・ブックではこのたび、安東能明、そして、冤罪事件を扱ったノンフィクションの傑作『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』(新潮社)の著者でジャーナリストの清水潔の対談を実現した。

 「二俣事件」の舞台となった静岡では、その後も「袴田事件」などの冤罪が起きている。小説家とジャーナリスト、それぞれの視点から、冤罪事件の闇に迫った。(編集部/メイン写真=左、安東能明。右、清水潔)

同じ冤罪事件を扱っていても、根本的に立ち位置が違う

清水潔『殺人犯はそこにいる―隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件―』(新潮文庫)

――清水潔さんが2013年に発表し、大きな話題を集めた『殺人犯はそこにいる』、そして安東能明さんの新作小説『蚕の王』はどちらも冤罪事件を扱っています。まず、清水さんが栃木県、群馬県で起こった連続幼女誘拐殺人事件を取材し、本にした経緯を改めて教えていただけますか?

清水潔(以下、清水):まず私の場合、安東さんとは立場的に違うところがございまして、作家ではないんですよね。いろいろな報道の職場にいたのですが、基本的には記者であり、あまり好きな言葉ではないですが、ジャーナリストとして実際に起きた事件を取材して、報道する立場なんです。『殺人犯そこにいる』でも書きましたが、この事件に関わったのも、未解決事件を特集したテレビ番組に記者として関わったことがきっかけでした。北関東連続幼女殺人事件は冤罪事件であり、取材のなかで真犯人の可能性がある人物を捕捉することができた。なんとか解決できないかと思い、月刊誌の連載や漫画化してもらったわけですが、もう一つの手段が書籍化だったんです。なにしろ事件の内容があまりにも広がり、かつ複雑で、テレビ番組では到底伝えきれないため、一冊の本にすれば、資料性も担保できるという思いもありました。

安東能明(以下、安東):清水さんの御著書を最初に読ませていただいたのは『桶川ストーカー殺人事件』(新潮社)でした。あの本のなかに清水さんが犯人を割り出し、そのことを警察にフィードバックする場面があり、取材能力の高さに本当に驚かされまして、それ以来のファンなんです。『殺人犯はそこにいる』でも、事件現場の周辺で綿密な聞き込みと取材を行い、真犯人とおぼしき“ルパン似の男”に辿り着く。ここに至るまでには、相当なご苦労があったのではないかと推察します。

清水:『殺人犯はそこにいる』に書いたことは、取材内容のごく一部なんです。『桶川ストーカー殺人事件』もそうだったのですが、現在進行形の事件を扱うことの難しさがありまして。私が真犯人を特定できるような書き方をしてしまったら、本人が逃亡や証拠隠滅を企てるかもしれないし、私刑を下そうとする人間が現れるかもしれないので。本を読んでいただくと、「どうやって真犯人に辿り着いたのか?」「DNA鑑定をどうやって行ったのか?」などの疑問が残ると思うんです。個人的にはその過程こそが面白いと思うのですが、様々な制約があり、どうしても書けないんですよ。

安東能明『蚕の王』(中央公論新社)

――安東さんの新作『蚕の王』は、戦後の静岡県で起きた「二俣事件」を題材にした作品です。静岡県二俣町(現・浜松市天竜区)は、安東さんご自身の出身地ですね。

安東:ええ。旧・二俣町は浜松から20キロほど奥に入った町なんですが、一家四人殺しという凄惨な事件が起きた翌日の朝、私の父がたまたま事件現場の近くを通り過ぎたそうなんです。その血なまぐさい殺人事件があったことを小さい頃からよく聞かされていて、ずっと興味を持っていたんですよね。実際に書こうと決めたのは、今から3~4年前。事件現場近くにある元文具店で、旧友のお兄さんから、二俣事件の捜査に加わった元刑事の手記(『現場刑事の告発 二俣事件の真相』)を見せられたのがきっかけでした。

――小説のなかに登場する刑事・吉村省吾のモデルですね。

安東:そうです。元刑事は拷問による捜査手法に憤り、証人として法廷に立ち(冤罪事件の被害者である)少年の無実を主張した立派な人物です。しかし、彼が手記のなかで、ある人を「真犯人である」と名指ししてることには疑問を感じました。その手記はメディアにも取り上げられていましたし、新たな冤罪を生んでいるかもしれないと思ったことも、この小説を書こうと思った理由です。もう一つの理由は、捜査の指揮をした紅林麻雄という刑事の存在。昭和20年代から30年代にかけて静岡では冤罪事件が頻発していたのですが、その多くは紅林という刑事が采配を振るっていたのです。紅林麻雄とはどんな人物だったのかを掘り起こして小説にしたいという思いもありました。

清水:大変感心しながら読ませていただきました。私自身、戦後の静岡でこんなに多くの冤罪事件が起きていたことを知らなかったので。そのためまずは二俣事件の概要を自分なりに調べてから、ページを開きました。巻末に記載してある参考文献にも少し当たってみましたが、本当によくお調べになっているなという感想を持ちました。私は同じく静岡で起きた袴田事件の取材にも関わっていたのですが、どうしてああいう事件が起きてしまたったのか、静岡県警の土壌みたいなものもわかった気がしました。こういう古い事件を読みやすい形で世に伝えていただけるのは、ジャーナリズムの見地からも非常にありがたいです。裁判の場面も詳細に描かれていますが、おそらく公判記録を確認するのは難しかったのではないですか?

安東:日本弁護士連合会にも問い合わせたのですが、公判記録は手に入りませんでした。当時の新聞にすべて目を通し、関連書籍などの情報も併せて書き進めました。

――取材したことをすべて書くわけにはいけないノンフィクションと違い、小説だから描けることもあるのでは?

安東:そうですね。『蚕の王』では僕が推測した真犯人のことも書いています。その人物に対しては、地域の方々も「犯人ではないか」と思っているし、じつは警察の内部資料にも書かれているんです。私自身も見たことがある人で、書かざるを得ませんでした。もちろん犯人だと確定できるわけではないですが、小説という形であれば提示できるのかなと。 

清水:あとがきの「あくまで推量に基づくもので、真犯人であることを(?)断定するべき証拠はない」という一文を読んで、納得がいきました。『蚕の王』は実際の事件をもとにしたフィクションではなく、ノンフィクションに近い小説なんだろうなと。そこに感銘を受けましたし、安東さんとしても「これはどうしても書いておかねばならない」という覚悟がおありだったんだと思います。一方で「羨ましい」と思うところも多々ありましたね。当時の登場人物たちの会話をまるでその場にいたかのように書けるのが小説のおもしろさだと思うんですよ。これはどっちが良いという話ではなく、報道記者の立場だとどうしても超えられないんです。つまり、自分が見てないものをあたかも見たかようには書けないんですよ。それをやってしまうと、「それ、誰が見たの?」ということになるし、記者はそう訓練されていますからね。小説はそうではなく、実際には見ていないことをどれだけ生々しく書けるかが、本としてのおもしろさ、物語の強さになる。たとえば『蚕の王』の395ページ。「昭和二十五年、寒波による強風が吹き荒れた一月六日の晩。」からはじまり、その夜に犯人がしでかしたことが、きっちりと書かれている。こういう部分ですよね、読み物のおもしろさは。私にも「本当はこういうものを書きたい」という思いがありますが、同じ冤罪事件を扱っていても、根本的に立ち位置が違うことをつくづく思い知らされました。

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