女性狙撃兵の目線で地獄の独ソ戦を追体験ーー『同志少女よ、敵を撃て』が持つ“小説の力”

 基本的に、歩兵は一人では戦えない兵科である。同じ部隊の味方と連携し、相互にカバーしながら作戦目標の達成を目指す。一人で戦えないのは他の兵科とて同じことで、戦車を動かすには乗員数名のチームワークが欠かせないし、大砲を操作するのも人数が必要だ。戦闘機のパイロットだって、第二次大戦当時は1対1で戦うのではなく、編隊を組んで互いに援護しながら戦う戦術が基本となっていた。

 だが、狙撃兵は違う。一人または少人数で行動し、あらゆる手段を使って隠れ潜み、アウトレンジから敵を捉え、反撃の機会を与えないまま攻撃するのが仕事である。熟練した狙撃兵ならば一人でも圧倒的多数に損害を与えることができるし、通常の歩兵よりもずっと多くの敵に被害を与えることが可能だ。歩兵の一種でありながら、その戦い方は全く異なる。

 通常の歩兵同士の戦闘なら、敵を殺し敵に殺される確率はある程度均等である。だが狙撃兵は、敵に殺される可能性をできる限り打ち消した上で一方的に攻撃を加えるという、極めて不均等な戦い方を旨とする。一方的すぎるゆえに、狙撃兵は味方の歩兵たちからすらしばしば忌み嫌われた。そして不均等だからこそ、体格や筋力で男性兵士に敵わない女性兵士でも有利に戦うことができたため、ソ連は多数の女性狙撃兵を訓練し実戦に向かわせた。

 主人公セラフィマはそんな狙撃兵となり、独ソ戦の地獄へと入り込む。大都市スターリングラードに立てこもるドイツ軍を包囲するウラヌス作戦に始まり、狙撃兵が最大の効果を発揮したスターリングラードの戦いへ飛び込み、1944年以降のソ連軍の大反攻戦に参加してケーニヒスベルグまで転戦する。イワノフスカヤ村を襲ったドイツ軍狙撃兵への復讐を目指して戦ううちに、外交官を目指していた純朴な少女は熟練の狙撃兵として完成されていく。

 セラフィマは、戦いの中で何度か「何のために君は戦うのか」と質問される。ドイツ兵による暴行の危機に晒された彼女は「味方を守り、女性たちを守るため」と答える。だが、独ソ戦の大きな特徴は、ヒトラーとドイツ軍がこの戦争をソ連との妥協なき世界観戦争とみなし、収奪と絶滅を目標としたことにある。その結果として、ドイツ軍による民間人を含めた人々への虐殺と暴行が膨大に発生し、対するソ連軍もドイツに入ってからは、復讐するかのようにドイツ人女性への暴行を重ねた。その状況を前にして、セラフィマの中で「味方を守ること」と「女性たちを守ること」が繋がらなくなる。セラフィマがそこでどのような選択をするのかは、本作の重要なポイントだろう。本作が一種のフェミニズム小説としても読める所以である。

 独ソ戦のように収奪と絶滅を目的とし、最初から妥協と停戦の可能性が閉ざされた戦争とは、参戦国には勝利か全滅しか選択肢がない戦いであり、そのような状況では兵士はより残虐にならざるを得ない。なんせ、降伏しても殺されるのだ。であれば、そうなる前に敵を殺しつくすしかない。そういった戦いは、参加した人間のありようを根本から変化させる。外交官を目指した村娘が、ほかの女性兵士たちと共に冷徹な狙撃兵にならざるを得なかったように。

 この心境変化、純朴な田舎娘だったセラフィマが冷徹な狙撃手として自軍内の差別や狼藉すら相対化して捉えられるようになる過程が、「独ソ戦に女性が参加するとはどういうことだったのか」「独ソ戦とはいかなる戦争だったのか」という疑問に対する答えなのだと思う。マクロな目線で見るといまいち全貌がつかみにくく想像しにくい独ソ戦だが、一人の女性狙撃兵の目線というミクロなサイズまで拡大すれば、「世界観戦争」とは一体どのようなものだったのかを追体験することが可能になる。

 本作は、主人公セラフィマの戦いを高い解像度で読者に追体験させることで、独ソ戦という大戦争の持つ異様さを浮き彫りにしてみせた。巨大すぎてつかみどころのない戦いに手がかりを打ち込み、独ソ戦とはどのような戦いだったのかを物語の形で解明しようとする取り組みだと言えるだろう。

 もちろんこの小説が明らかにしたのは、巨大な独ソ戦の極めて限定的な一側面のみである。しかし、巨大すぎて把握できない事象であっても、小説であれば追体験という形で読者に理解させることができる。その点において、本作は小説と物語の持つ力を活かしきった作品と言えるだろう。独ソ戦への興味の有無にかかわらず、小説という表現方法の力と可能性を感じたいのなら、ぜひ一読をお勧めしたい。

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