北丸雄二×川本直が送る、日本文学の「クィア・リーディング的読解」 漱石、太宰、大江の名作における同性愛について

クィア・リーディングで読む『こころ』  

川本:ヴィダルが亡くなってしばらくして、私は文芸批評の道に進んだのですが、そのなかで吉田健一を論じることになって。  

北丸:吉田健一もすごく不思議ですよね。イーヴリン・ウォー、クリストファー・イシャーウッドなど、ゲイでクィアな作家を多く訳している。  

川本:吉田健一が詩を訳すと19世紀末文学のように耽美的になりますよね。本人の文章ともまた違う魅力があって、あれはすごくクィアだと思います。  

北丸:吉田健一は留学から帰国後、鉢の木会というグループを作りますよね。その中には三島由紀夫のようなとてもクィアな人も出入りしていました。  

 文学の世界ではオスカー・ワイルドやその前の時代から、クィアネスやゲイネスがすごく受け入れられていますよね。80年代ごろからはアメリカやイギリスの大学でも文学評論や比較文学の分野で日本文学が扱われるようになりました。そこで同性愛文学として注目されたのが三島由紀夫でした。  

川本:その前段階として、江戸川乱歩と岩田準一が同性愛文献を集めたり、乱歩は同性愛小説を自分で書いたりしていましたよね。折口信夫も書いていましたし。当時は薩摩が広めたバンカラな男色、それとは違った昔から続いていた江戸の男色、同性愛を禁じるキリスト教由来の道徳の3つの勢力が鬩ぎあっている時代でした。  

北丸:そうですね。ただ、僕がクィア・リーディングの対象として面白かったのは、あからさまに『禁色』や『仮面の告白』を書いていた三島よりも、夏目漱石の『こころ』だったんですよ。  

 『こころ』は先生とKと奥さんの三角関係で、先生がKから奥さんを奪って結婚したという話。先生は「自分はKを裏切ってしまった」と後悔しつづけるのですが、80年代のアメリカ比較文学では、実は先生が愛していたのは奥さんではなくKだったとみる。Kをとられるのが嫌だから奥さんを自分に引き寄せただけなんだと。  

川本:日本でも、クィア・スタディーズ成立前の1982年に橋本治が『蓮と刀』でそれを見抜いていましたね。慧眼でした。 

 私も小学生の頃に初めて読んで、異様な小説だと思いました。冒頭の先生と語り手の〈私〉が出会う場面で、〈私〉は、ただの無職の既婚者のおっさんに過ぎない先生が浴衣を脱いで海水浴をするのに異様に執着する。「なんでこれが学校の推薦図書になっているんだろう?」 と思っていました。  

北丸:僕は子どものころ、太宰治から小説を読み始めたんですけど、『走れメロス』もそうでしょう。  

川本:ホモソーシャルが行きすぎてゲイまで行ってしまった感じですよね。最後は全裸で抱き合うし。  

北丸:太宰は『晩年』という創作集のなかの「思い出」という作品で、少年のことを好きだとも書いています。彼はあちこちで「君は美しい」「君が好き」だと男女かまわず言うんですよね。  

川本:太宰はそもそも女性のことは自分のために利用するモノのようにしか思っていないところがありますね。  

北丸:心中するのも一人じゃ怖いから一緒に行ってくれというだけの話だしね。漱石も女性に対してけっこうひどいこと書いているし、今のジェンダー規範からみると、とんでもないおじさんたちなんですよね。  

 もう一つ面白いのが、僕は太宰のあとに大江健三郎を読み込んだことがあって。大江の初期の作品には、ほとんどゲイとしか思えないような濃密な男同士の関係が描かれているんです。日本で一番ホモソーシャルというか、ホモセクシュアルな関係性を描いていたのは、三島よりも大江だったと思いますね。  

川本:そうですよね。女性とのセックスは書くけど、ひたすら自分と他人の男性器の話をしていますし。  

北丸:「セクス」という語を使ってね(笑)。  

川本:三島が亡くなったあとに、大江本人もそのあたりを考えたみたいで。先日出た『三島由紀夫小百科』という本によれば、大江は自分の同性愛傾向と同性愛嫌悪の双方を、死んだ三島へのアンサーとして小説で描くのを試みていた時期があったようです。  

北丸:地下生活者のようなゲイ男性を描いた「下降生活者」という初期の短編には、新宿二丁目のような描写があります。「つきあっていただけませんか? 男同士の同性愛です」というキーフレーズも出てきます。  

 太宰は愛の矢があちこちに飛んでいるけど、大江は同性愛をどこか別の場所に行くための道具として使っています。あの頃は学園闘争とか、いろんな革命がもっと身近にあって、今では考えられないような人間と人間の濃密な関係が小説に描かれていました。それは一般社会でもそんなに異様なことではなかった。大江はそういう関係性をピックアップして小説に書いているけど、そのなかでも同性愛を特別視しているんですよね。同性愛をはじめて意識的に、何かの道具として使いはじめた作家でもあった。  

 『燃えあがる緑の木』という90年代の長編には、「サッチャン」という両性具有の人物が登場します。そこで「サッチャン」は、救世主のような存在として描かれます。まるでこれまでの同性愛や性的少数者の扱いを謝罪するかのように。ただ、救世主として描くのも「酷く描く」のと同じで、一つの特別視なんですよね。  

 『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』も、今年芥川賞の候補になった千葉雅也さんの『オーバーヒート』も、ゲイという存在を特別視していないんですよね。デフォルトとして存在するゲイを、千葉さんはけれんみなく描いていて、川本さんはものすごいけれんみで描いているけど、どちらも性的少数者や女装者、異端者を〈あらかじめそこにいる存在〉として普通に描いて、そのまま普通に終わるんです。

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