史上もっとも汚い言葉で書かれた小説? ロシア文学の沼へ誘う『ヌマヌマ』

 本書には「ロシア文学史上もっとも汚い言葉で書かれた小説」と称される作品も登場する。その小説とは、1979年に発表されたエドワルド・リモーノフの自伝的長編『ぼくはエージチカ』。本書では第9章にあたる「ロザンナ」のみ収録となるが、1章分だけでも充分にロシア文学トップクラスの汚さではないかと思わされる。

 ニューヨークへやってきた亡命詩人が、失業中の元教師ロザンナと付き合い離れていくまでの経緯を語るこの物語。冒頭からいわゆる“Fワード”が出てくること実に32回。男性器・女性器の名称やスラングも各所にちりばめられている。

 だが下品な話で終わりではなく、〈いつだって連中は他人の問題を恐がっている。アレン・ギンズバーグも恐がっている。そういう彼らがここでは—自分の国アメリカでは—強い人々なのだ〉〈アメリカ人は自分の仕事の話、自分がいかに沢山働いているかという話をするのが大好きときている〉など、アメリカに対する辛辣な批評も飛び出すから油断ならない。「ロシア文学史上もっとも汚い言葉で書かれた小説」の全貌がどうなっているのか気になりだした頃にはもうきっと、沼に下半身が浸るほど現代ロシア文学にはまって抜け出せなくなっているはずだ。

 このように現代ロシア文学はぶっ飛んだ小説ばかり、と一括りにはできない。一家でスイカを食べる何気ない場面から、彼らに訪れる死や暴力の気配が浮かび上がるザハール・プリレーピン「おばあさん、スズメバチ、スイカ」。オンボロ学生寮の汚さや悪臭の描写が、寮の部屋で密通する男女の淫靡な雰囲気や堕落を象徴するアサール・エッペリ「赤いキャビアのサンドイッチ」といった作品は、物語世界のイメージを喚起する精巧な文章が魅力。独特な語り口の一人芝居で人気を博し、小説に映画に音楽にとマルチに活躍する作家エヴゲーニイ・グリシコヴェツ。彼の話術の一端を垣間見ることのできる「刺青」は、〈俺〉が左手の親指に刺青を入れた顛末を語る中でのユーモアとペーソスの按配が絶妙だ。

 こうした様々な作風が同居するごった煮感も味だと思えた時には、沼を飛び出して、熊とマトリョーシカと一緒に草原を歩くぐらい現代ロシア文学と親密になっているに違いない。

■書誌情報
『ヌマヌマ はまったら抜けだせない現代ロシア小説傑作選』
編訳:沼野充義/沼野恭子
出版社:河出書房新社

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