『明日、私は誰かのカノジョ』共感ポイントは、うしろめたさにあり? リアルな作風が支持された理由を考察

「うしろめたさ」をフックに共感したり幻滅したり

 冒頭でも述べたように、『明日カノ』は章ごとにヒロインが異なる連作形式である。ヒロイン同士が大学の同級生で友人関係、あるいはサークル仲間、同じレンタル彼女サービスの従業員など、微妙な重なりを描いている。

 『明日カノ』の掲載媒体「サイコミ」は男女に分けられていないWEBアプリであり、厳密には「少女漫画」とはいえないのだが、女性読者からの支持の強さや共感度合いであれば、往年の『ハッピーマニア』や『NANA』などの名作とも並ぶのではないだろうか。

 ただ、これらの作品と『明日カノ』が大きく異なるのは、女性たちの関係性だ。『ハッピーマニア』の主人公、シゲタカヨコは何かがあると親友のフクちゃんこと福永ヒロミに泣きつくし(それは15年後を描いた『後ハッピーマニア』にまで至っても変わらない)、『NANA』の小松奈々と大崎ナナの間には強い絆がある。

 しかし、『明日カノ』のヒロインたちの関係はそのかぎりではない。彼女たちの世界を二分するのは、ある種のうしろめたさだったり劣等感だったり、言ってしまえば「持たざる者」としての自意識だ。ヒロインたちは、「自分は世間一般の考える『幸せ』を受け入れるには欠けている」と感じている者ばかりだ。

 1章のヒロインである雪は、彼女の顧客である壮太からの熱心なアプローチに、一瞬心揺らぐも、家族から愛されて育った彼とネグレクトを受けてきた自身とに溝を感じ、あっさり壮太の前から姿を消す。2章のヒロインであるリナは、パパ活を含め男性の存在がないと自己を保てない自分と違い、誰とも群れていない雪に憧れに近い感情を持っていた。しかし、大学内でレンタル彼女サービスサイトのプロフィール写真が出回ったことにより、「風俗で働いている」と噂をたてられ、リナは「なんだ (パパ活をしている)私と同じだったんだ」と幻滅する。なお、誤解はその後解けるのだが。

 そして、3章のヒロインのあやなは、美容整形費用のために雪と同じレンタル彼女サービスに在籍しており、人気ランカーである美しい雪にコンプレックスを抱いていた。ある日美容整形クリニックで雪を見かけたことにより、「なぁんだ (美容整形をしている)あたしと同じだったんだ」と安堵する。ただ、3章の終わりで仕事も恋人も手放したあやなだが、その佇まいはどこか晴れやかであるし、「持たざる者」ゆえのプライドを感じるラストであった。ただ「悲惨で可哀想」なわけではないキャラクターの姿も、読者の共感を集めるのだろう。

 持たざる者、欠けている者同士の共感、これはゆあと萌の関係においても同様で、当初は萌に対して「ガールズバーで働いている」と説明していたゆあも、萌がデリバリーヘルスで働いていると察した途端、「本当はね……」と自身もガールズバーではなくデリバリーヘルスで働いていることを明かす。その後二人は蜜月と呼べる関係を築くのだが、それも萌がホスト通いをやめることを告げると、あっさりと終わりを迎えた。

 こんなふうに、彼女たちは誰かしらと強い関係を結ぶわけではなく、主にネガティヴな感情をフックに瞬間瞬間で共感したり幻滅したりする。もちろん、どのヒロインにとっても、男性の存在が救済にならないのはいうまでもない。そう考えると、『明日、私は誰かのカノジョ』は皮肉かつ、切ないタイトルだ。

 そして、アプリのコメント欄やSNSの口コミでも、「Knockin’ on Heaven’s Door」編の結末の感想は賛否を巻き起こした。萌が楓への高額シャンパンタワーを放棄しホスト通いを辞めたことによって、「よかった」と安堵する者と「ありえない」と激怒する者。ここでも世界は二分されていた。そして、まるで萌やゆあが実在するかのような反響をみるに、読者は彼女たちを「本当の女友達」として愛していたのかもしれない。

 これは余談かもしれないが、一昨年頃に歌舞伎町のとある喫茶店(ちなみに、ゆあと萌が最後に会った喫茶店のモデルでもある)で時間を潰していたときのことだ。近くの席に「あの子は可愛くないから稼げない」と、対面するスカウトと思わしき男性相手に大きな声で愚痴をこぼしている女性がいた。そしてまたある日、同じ喫茶店でインフルエンサー風の女性が「整形は公表した方が(女性からの)共感が得られるからね」と、うそぶいていた。まるで『明日カノ』さながらの会話だ。そして店を一歩出れば、ホストクラブの看板や女性向け高収入宣伝トラックが氾濫している。『明日カノ』はそんな世界の話であるし、その世界は私たちが暮らす世界と地続きでもあるのだ。

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