『コロナの時代の僕ら』から考える、コロナ禍とミステリ小説の相似

 中国から世界へと広まり、各国で猛威をふるう新型コロナウイルス感染症。なかでも爆発的に感染者が増加し、多くの死者がでているのがイタリアだ。そのように事態が悪化していった2月末から3月前半にかけて書かれたパオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』(飯田亮介訳)が、最も早いコロナ文学として話題になっている。このエッセイ集は、早川書房が期間限定で全文をインターネットで先行公開した後、書籍化している。

『素数たちの孤独』(早川書房)

 ローマで自らを隔離状態にしたイタリアの作家が、コロナ禍をどのように受けとめたかを語っている。情緒的な内容ではない。代表作に『素数たちの孤独』と題された小説があり、物理学の博士号を有するジョルダーノがコロナと対峙する際にこだわるのは、数学だ。「感染症の数学」、「日々を数える」といった章があるのが象徴的である。自身を「数学おたく」と認める著者は、「文章を書くことよりもずっと前から、数学が、不安を抑えるための僕の定番の策だった」という。

 現在、いろいろな数字が取り沙汰されている。感染者、死者、回復者をカウントするのをはじめ、出歩けなくなった日々、暴落した株価の損失、マスクの供給、この危機が去るまでの時間など、このウイルスが広まって以降、人々は様々なものを数えないではいられなくなっている。数字がパニックを生む原因だとして、情報を発信する側が数字を隠したり少なく見せたりする動きもあった。著者は、人々が数をどう扱ったかを追うことで社会の混乱を描いていく。

 その一方で彼は、本の前半で事態収束への筋道をひとつの数学として記してもいた。コロナウイルスにこれから感染しうる人、すでに感染した人、もう感染しない人の3グループに現在の人類が分類され、ひとりから伝染する人数が1未満になれば終息すると説明する。それを「僕たちの我慢の数学的意義」と呼ぶ。

 ジョルダーノは、数学とは数の科学ではなく関係の科学だとして、こう定義する。

数学とは、実体が何でできているかは努めて忘れて、さまざまな実体のあいだの結びつきとやり取りを文字に関数、ベクトルに点、平面として抽象化しつつ、描写する科学なのだ。

『われら』(集英社文庫)

 そのように抽象化した見方をすることが、事態を冷静にとらえることにつながる。一人ひとりの違いを度外視して同等の数扱いすることは、名前ではなくナンバーで国民を呼ぶディストピア的な冷たさを思わせる面もあるだろう(例えばザミャーチン『われら』は、そういう設定のディストピア小説だ)。

 しかし、ジョルダーノは、エッセイで数学的思考ばかりを展開するわけではない。一週間もすれば元に戻れると甘い見通しが話されていた夕食の席、日本人の妻が「中国に帰れ」といわれたことなど身近な友人たちのエピソードを記しているほか、著者がかつて手足口病になり自宅隔離を余儀なくされた経験をふり返っている。無機質な数には還元できない人間くさい言動が語られているからこそ、本書には私たちの問題が書かれていると感じるし、冷静に向きあわなければならないと考えさせる。

 コロナ禍に関しては、フランスのマクロン大統領など、戦争に喩えて緊急性を訴える政治家がおり、独裁や人権の停止に結びつくのではないかと議論になっている。その比喩に対しジョルダーノは、感染症と戦争は異質であり「恣意的な言葉遊び」だと批判する。『コロナの時代の僕ら』を私が読んでいて思ったのは、むしろ現状とミステリ小説の相似だ。

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