『風の谷のナウシカ』に表れる宮崎駿の“矛盾”とは? 『ミヤザキワールド』と『ナウシカ考』、2冊の書籍から考察

母の不在と代理母性

 宮崎作品には母性を巡る描写が頻出する。それは宮崎氏自身の幼少期の母親との関係性からくるものであるとネイピア氏は指摘している。宮崎氏が幼少の頃、母親が結核を患い、しばしば自宅に不在であったことが『となりのトトロ』のサツキとメイの母が入院しているアイデアに繋がり、『風立ちぬ』のヒロイン菜穂子は、同氏の母と同様の病気を抱えている。

 宮崎氏は、しばしば母の不在を描く。それは結核で母と子の時間を満足に持てなかった体験の反映ではないかとネイピア氏は考えている。そして、母の不在は、代理的な保護者の物語を生み出す。ネイピア氏は『となりのトトロ』のトトロの大きなお腹は子宮を連想させ、トトロがサツキとメイの保護者的な役割を担っていると指摘する(『ミヤザキワールド』、P196)。

 漫画版『風の谷のナウシカ』においても母は重要なキーワードとなっている。赤坂氏もこの漫画には幾重にも「母の不在」が描かれていると主張する。ナウシカの母は娘を愛さず、クシャナの母は娘を守るために毒の盃を飲んだ。赤坂氏によれば、「ナウシカ的世界そのものが母の不在に喘ぎ苦しんで(『ナウシカ考』、P85)」おり、その欠落を埋めるかのように、ナウシカが母としての役割に憑依していくのだと言う。

 終盤、ナウシカは巨神兵に「オーマ」という名を与え、巨神兵の母として振舞う。その他、旅の道中で幾人もの人々を母のようになぐさめ、擬態としての母を演じ続ける。こうした不在を埋める擬態としての母の源流は、1972年に宮崎氏が高畑勲と手掛けた映画『パンダコパンダ』に見られると赤坂氏は指摘する。両親のいない幼い少女、ミミ子のもとにパンダの父子がやってくる。ミミ子は、パンダの子供パンにママになってあげると言うのだ。こうした異形の母子関係は『もののけ姫』のサンと山犬の母、モロとの関係にも見出だせるかもしれない。

 ネイピア氏は、宮崎氏にとっての母の存在の大きさを物語るものとして、以下のインタビューを紹介している。

「だから人っていうのは愚かなものなんだよっていうね。実は母親とこの問題をめぐって、ずーっと思春期の頃に論争していたんです。『人間っていうのは仕方がないものなんだ』っていうのがオフクロの持論で、僕は『そんなことはない』って言いあってたんですけどね。どうもこのままいくと、オフクロに無条件降伏になるから嫌だなあと思って(笑)」(『風の帰る場所』、P94)

 これは、宮崎氏がユーゴスラビアの紛争などを経て西洋への失望を強める過程で、人間の進歩のなさについて考えた結果、母親が正しかったことを認めたということだとネイピアは綴っている(『ミヤザキワールド』、P244)。西洋的な価値観に憧れ、それが世界の複雑さの前に敗北し、人間というものは「仕方がない」ものだという諦念の境地に達することで母親の主張に賛同せざるを得なくなった複雑な思想の変遷が同氏の作品のそこかしこに反映されているのだ。

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