時代と対峙し続けた少女小説家・氷室冴子のフェミニズム的な視線ーー『氷室冴子とその時代』を読む

 『氷室冴子とその時代』(小鳥遊書房)は、『なんて素敵にジャパネスク』や『クララ白書』、あるいはスタジオジブリによってアニメ化された『海がきこえる』など、数多くの作品を生み出した小説家・氷室冴子のキャリアを追った書籍である。

 著者の嵯峨景子は前著『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』(彩流社)で、1960年代のジュニア小説から今日に至るおよそ50年間を見通す少女小説史を描き出した。そして今回の『氷室冴子とその時代』では、1980年代の少女小説ブームの中心にいた氷室に焦点をあて、その足跡を丹念にとらえている。少女小説家として目覚ましい活躍をみせていた1980~1990年代ばかりでなく、若くして同時代コンテンツへの鋭い分析的視野を発揮していたデビュー以前、また最晩年に至るまでが詳細な調査とともに記述される。さらに、氷室が学生時代に執筆した未発表論考も全文収録され、資料性の面でも本書は意義深い。

 もっとも、同書は少女小説家として名を馳せた氷室の一代記である以上に、まさにタイトルが示すように、氷室が時代状況や彼女をとりまく環境とどのように切り結んできたかを浮かび上がらせるものでもある。

 たとえば氷室は1983年の『少女小説家は死なない!』で、当時のティーン向け読み物の多様化をパロディ的に描写しつつ、一度は過去のものとされつつあった「少女小説」「少女小説家」という言葉に再び光を当てた。しかし、1980年代中盤から後半にかけて生じた少女小説ブームや編集部によるキャンペーンの過程で、「少女小説」は氷室が指し示した豊かな多様性とは真逆に、むしろステレオタイプなイメージへと回収され、氷室自身もそうしたキャンペーンの内にパッケージされてゆく。少女小説がマーケットとして拡大しピークを迎えるなかで、当事者として最も中心に立っているはずの氷室の「少女小説」にかける矜持やポリシーは疎外されてゆく。以降の氷室が少女小説から離れた仕事を模索してゆく本書後半と併せ読むと、その葛藤の跡にやるせなさを感じずにはいられない。

 あるいは、本書では氷室が新作執筆から遠ざかった1990年代後半から2000年代初頭の仕事も追っているが、そこにみられるのは彼女が前進をやめた姿ではなく、むしろ時代と対峙して作品をアップデートしようとする意志である。

 この時期、氷室は自らの過去作のリライトに積極的にとりくんでいた。氷室が代表作を著した時期のエンターテインメントはしばしば、今日からみれば明確に差別的であるような表現に関して、その抑圧性がさほど意識されずにいた。そうした旧時代の歪みは今日でも種々のコンテンツに少なからず顔を出し、問題の根深さを物語る。このような、かつては意識されにくかった抑圧的な表現への再検証を、氷室は自身の人気作品に対して施していく。同時に、すでに時代感がずれて古くさくなった言い回しやディテールも、リライト版では適宜、手が入れられていく。それは、常に現代性と向き合いながら小説家としての己を提示する氷室の姿である。もちろん、嵯峨が言及するようにこの作業は、時代の空気を含めたオリジナル版の表現の勢いを削いでしまうリスクと不可分だ。それでもなおリメイクを進める氷室の選択には、常に自身の生きる時代に対して鋭敏であろうとする姿勢がうかがえる。

 そして、氷室を通じて時代を問い直すような本書の志向はまた、単に回顧としてのみあるのではない。それは氷室が世を去って10年を経た現在にまで向けられている。

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