横浜銀蝿、会社員時代、大切な“先輩”との別れ――Johnnyが語る、ソロデビュー45周年に至る努力と継続の日々
嵐さんの言うことに自分は「ノー」を言ったことがなかった
――なるほど。あと、今回ソロアルバムとしては40年ぶりということで、曲作りなど制作面はいかがでしたか。
Johnny:80年代当時も今もそうなんですけど、基本的に時代に乗っかろうとかは思っていないんですよ。自分の伝えたいこととかやりたいものを、自分の思うがままにやっていきたい――それが楽しさにつながっているんです。だから、曲作りで悩んだりとかもなかったですね。ギターアレンジに関しては全部自分でやりましたが、全体的なサウンドメイクは、俺の後輩だった人間に中心になって作ってもらったんです。銀蝿の時もそうでしたけど、嵐さんの言うことに自分は「ノー」を言ったことがなかったんですよ。それは絶対的に信頼しているから。それと同じで、今回は後輩たちが俺に対してやってくれていることに、よっぽどのことがない限り「ノー」と言うのはやめようと思ってました。サウンドも、アーティスト写真も、キャッチコピーとかも、後輩たちのやりたいように任せよう、俺はそれに乗っかろうという感じでした。
――それだけ任せられる信頼関係ができていたわけですね。
Johnny:本当に。音楽って、算数と違って正解/不正解はないと思うんですよ。人の心情でやってるものだし、“好き”か“嫌い”かじゃないですか。俺は仕事をいい加減にやっているヤツには腹が立つんですけど、一生懸命やっている人に対しては対等だと思っているんです。だから、現場の子たちが「これ絶対やりたいです」、「こういうふうにしたいです」っていうことに対して、「ノー」は言わない気持ちで今もやってます。なので、今マネージャーに「TikTokで踊ってください」って言われて、家で練習してます(笑)。後輩には、「俺をおもちゃにしてね。その代わり真剣に遊んでね」って感じです。
――(笑)。アルバムは1曲目の「Highway Dancer」からぶっ飛ばしていますし、「ジェームス・ディーンのように」「男の勲章」の再録もあったり、ポップな曲や聴かせる曲までいろんな楽曲が楽しめますね。
Johnny:「Highway Dancer」は、1曲目だしガツン!といこうと思ってね。「いまだ健在だぜ!」「バリバリだぜ!」って(笑)。67歳のおっちゃんだけど、年齢は単なる数字ですから。いつまでもそういう気持ちを持ってないとね。もちろんアルバムが売れないといけないのはわかっているんですけど、それ以上に好きなことをやらせてもらっているんで、今は高校生の時の気分に戻ってますね。
――フレッシュな気持ちでソロアルバムを作り切れたと。
Johnny:本当にそう。今伝えたいことを、今の言葉と今の表したい音楽でできたので、そういう環境にしてもらった後輩たちには感謝してますし、それをやらせてもらえた俺はすごく幸せだなって思いますね。40年ぶりの3rdアルバムだし、3月に東名阪ツアーをやるんですけど、80年代当時にソロライブって1回しかやったことがないんです。ソロでツアーは初めてなんで、今回はセカンドバージンですよ(笑)。キャリアの長い新人ちゃんです。
TVで観たキャロルの衝撃――「俺もいつかこういうのをやりたい」
――ではここからは、音楽人としてのJohnnyさんについて、これまでを振り返りながら話を進めさせてください。まず「ジェームス・ディーンのように」「男の勲章」などもそうですが、80年代当時からJohnnyさんの作る楽曲はすごく耳に残る作品ばかりです。突き詰めていくと「メロディメーカーだな」という印象があるのですが、Johnnyさんはどんな音楽に影響を受けてきたんですか。
Johnny:音楽を聴き始めたいちばんはじめのルーツは、ロックンロールじゃなかったんです。俺は小学校の時、すごいスポーツ少年で、もともとは音楽にまったく興味がなかった。でも、小学校5年生で大病を患って、中学3年まで5年間まったく運動ができなかったんです。病気をしてはじめの3カ月くらい入院していたんですけど、その時にラジオで聴いた全米トップ40が音楽との出会いだったんです。当時の日本は「黒ネコのタンゴ」「伊勢佐木町ブルース」とか、ピンキーとキラーズとか昭和のザ・歌謡曲って感じのが流行っていたんだけど、ラジオから流れてきたアメリカンポップスのメロディックなものにすごく惹かれて、「音楽ってすごくきれいだな」って思ったんです。
――どんなアーティストが好きだったんですか。
Johnny:キャロル・キングの「君の友だち」、ロバータ・フラックの「やさしく歌って」、カーリー・サイモンの「うつろな愛」とか、ギルバート・オサリバン、ビリー・ジョエルとかそのあたりの曲が好きでした。そこから音楽に興味を持って、The Beatlesのアルバムを買ったり、The Zombies、Gerry And The Pacemakersとかのリバプールサウンドをいろいろ聴きました。翔くんは、チャック・ベリーとかとんがったロックンロールの世界が好きなんで、のちに作る曲もおのずと個性がわかれたんです。なので、自分の本当の根っこのルーツはアメリカンポップスになるんですよ。
――そうだったんですね。ギターはいつから始めたんですか。
Johnny:小学生の時に入院したあとも自宅で療養しなきゃいけなくて、やることがなかったんです。ちょうど日本で吉田拓郎さん、泉谷しげるさんとかが出始めた頃で、親にフォークギターを買ってもらったのが楽器に触ったきっかけでした。で、中学になってもずっと体育は見学でクラブ活動もできなくて、そんな中学2年生の時にテレビの『リブ・ヤング!』(フジテレビ系)って番組に出たキャロルを観て衝撃を受けたんです。当時の日本は歌謡曲全盛で、The Beatlesみたいなおしゃれなサウンドは海の向こうのものだと思ってたんです。そしたら、キャロルがすごくかっこいいことをやっていて、「俺もいつかこういうのをやりたい」と思ったんです。それで高校に入ってクラスメイトといろいろ話しているうちに、翔くんもダウン・タウン・ブギウギ・バンドとかが好きで、「ああいうバンドをやろうよ」って言ったのが銀蝿の大元になるいちばんはじめのきっかけでした。
――高校時代に翔さんたちとはどんなバンドをやってたんですか。
Johnny:自分らの好きなロックをやるって感じで、高校生の時からコピーはやらずに、みんなでオリジナルを作ってやっていたんです。でも、バンドを組む前に、当時開局したばかりのテレビ神奈川で『ハマヤング』っていうアマチュアのバンドコンテスト番組があったんですよ。翔くんに「俺たちもバンドを組んで出ない?」って言って、それでクラスでバンドを組んだのが最初だったと思います。そこで歌ったのが、自分らで作った「これでいいのか高校生」って曲なんですね。「♪親に隠れてタバコをふかし、ジャンジャジャンジャジャン、これでいいのか高校生」っていう高校生の生活を面白おかしく書いたもので、今考えると「ツッパリHigh School Rock'n Roll」そのまんまなんですよね。だから、高校生の頃から銀蝿の布石があったんだなって。
――バンドをやり始めた最初の時点で、横浜銀蝿の原型があったと。
Johnny:80年代前半って、音楽やってる人は歌番組に出たがらなかったけど、俺たちはテレビが大好きで、銀蝿は「出たい出たい!」ってウェルカムだったんですよ。
――横浜銀蝿はテレビにすごく出ていましたよね。横浜銀蝿は1980年9月にデビューして、世間を巻き込む人気を掴んでいったわけですが、当時の80年代の喧騒をJohnnyさんはどう感じていたんですか。
Johnny:銀蝿は、1980年9月にシングル『横須賀ベイビー』とアルバム『ぶっちぎり』の同時発売でデビューして、はじめは不良界隈で「すごいの出てきたぞ」みたいな感じでオリコンランキングの96位かなんかに入ったんです。そしたら翌年の頭にシングル『ツッパリHigh School Rock’n Roll (登校編)』でいきなり大ブレイクじゃないですか。だから、あれよあれよという感じで、気持ちが追いつかなかったです。すぐに全国ツアーがあったし、俺は1981年11月に「ジェームス・ディーンのように」をソロで出して、それが(嶋)大輔と(杉本)哲太のドラマ『茜さんのお弁当』(TBS系)の主題歌でバーンと売れて。銀蝿もだけど、ソロのJohnnyというのも人気になって、1982年のバレンタインデーはすごい数のチョコレートが4トントラックでくるっていう(笑)。本当「何がどうしたんだ?」って感じでしたよ。
――ちょうど時代的にテレビで『3年B組金八先生』(TBS系)があったり、ヤンキー文化みたいなものが話題になっていた時代でしたよね。
Johnny:ちょうど校内暴力とか暴走族とかが社会問題になっている時代だったんですよ。俺、いつも思うんだけど、何でもタイミングってあるじゃないですか。もし横浜銀蝿が5年前にデビューしていても、5年後にデビューしていても、たぶんあんなに売れなかったと思います。ちょうど時代にハマったんでしょうね。そういう運命みたいなものってあると思うんですよ。
――たしかに、タイミングは大きいですね。
Johnny:だって、リバプールであの時代にジョン(・レノン)とポール(・マッカートニー)が生まれていなかったら、The Beatlesはなかったわけじゃないですか。神さまの巡り合わせみたいなものをすごく感じます。自分も時々そういうことってあるんですよ。小学校5年生の時に病気をしなかったら、俺は音楽と巡り合わなかったし。僕の座右の銘は「人間万事塞翁が馬」なんですけど、活発な少年が5年間も運動できなくてその時はすごくツラかったけど、それがのちの自分にとって人生に大きな意味を占めたわけじゃないですか。だから、今が最悪だと思っていても物事はどうなるかわからない。一喜一憂せずに何事も真剣に、っていうのは常に思ってます。