横浜銀蝿、復活インタビュー 40周年へのチャレンジとチームのスピリッツを大いに語る

横浜銀蝿、40周年へのチャレンジ

 暴走族、校内暴力、不良。昨年のドラマ『今日から俺は!!』でも話題になった、1980年代に吹き荒れたツッパリ文化の中。その時代をリーゼントにサングラス、革ジャン、白いドカンというファッションで身を包み、軽快なロックンロールと共に駆け抜けた横浜銀蝿。あれから40年、元祖ツッパリロックバンド=横浜銀蝿が、Johnnyを加えたオリジナルメンバーで復活する。今だから明かされる銀蝿の真実? 80年代リバイバルで何を想ったのか? 40周年イヤーを目前にした彼らからは、60歳を越えても変わらぬ銀蝿スピリッツが溢れていた。(榑林史章)

横浜銀蝿でデビューするために暴走族を辞めたんです

ーー来年40周年を迎えるとのことで、今思うことは?

嵐:40周年ということは、単純にそれだけ歳を取ったんだなと思いますね。デビューした時は俺が25歳で、それから40年。来年65歳ですよ。そういう節目にオリジナルメンバー4人で、またこうして活動ができて感激しています。

翔:俺たち横浜銀蝿は1980年にデビューして、1983年12月31日に一度解散しました。その後は、それぞれでソロをやったり音楽関係の仕事について、嵐さんは事務所の社長として新しい子を育てたり、いろいろやってきて。だけどチーム横浜銀蝿がなくなったわけじゃない。一番熱い時期を共に過ごしてきた仲間とは、10年ぶりや20年ぶりだったとしても、いつでも当時と同じように会話ができる。今回40周年を迎えるにあたって、Johnnyが一緒にできるということが、俺たちにとっては何よりも嬉しいし、10代からやってきたロックンロールを続けられていることに改めて感動しています。

ーーJohnnyさんは1983年の解散以降、37年ぶりに横浜銀蝿に参加するわけですが、久しぶりに袖を通した革ジャンの感覚はいかがでしょうか。

Johnny:人生って本当に何があるか分からなくて、面白いものだなって思いますね。去年の11月くらいまでは想像もしていなかったけど、こうして40周年に向けたプロジェクトに参加できてうれしいし、人生まだまだ楽しいです。

TAKU:これくらい年齢を重ねると、トキメキとかワクワクとかって言葉を口にするのは、ちょっと恥ずかしいんだよね(笑)。でも、久々にすごくワクワクを感じています。自分たちが子どもの頃に見ていた先輩たちが、亡くなったり引退したりしていくのを見てきて、再結成しようにもできないバンドもある。そういう世代の我々が、オリジナルメンバー4人が揃った状態で40周年を迎えられるのは、本当に幸せなことだなって。

ーー横浜銀蝿と言えば、1980年代のツッパリブームを牽引した存在。昨年のドラマ『今日から俺は!!』が話題になり、嶋大輔さんが歌った「男の勲章」が出演者による“今日俺バンド”にカバーされたのもあって、当時のツッパリブームが改めて注目を集めました。あの状況は、どんな風に受け止めていましたか?

翔:そういうドラマをやる話は耳に入ってて、面白そうだと思って第1話を録画して観たんです。で、観たら最初に俺の顔が映って、「はぁ!?」って(笑)。「いやいや、そんなの聞いてないよ」って驚きました。

ーー映ることを知らなかったんですか?

翔:(嵐を指さして)言うのを忘れちゃうんです。

嵐:そうだっけ?(笑)。

ーーでも1980年代は、『今日から俺は!!』に出てくるようなファッションや制服、学校での出来事が普通にありましたよね。

翔:ツッパリブームというのは、簡単に一口では言えないけど、不良がハメをハズしたり、不思議な根性論があったり、仲間が力を合わせるとか……それは、若者の永遠のテーマだと思うんだよね。だから何年か周期で、そういうのが流行る。銀蝿がデビューした前後は、ちょうど暴走族や校内暴力が社会現象になって、それが時代を経て合致したのは面白いと思ったし、「これはチャンスだな」とも思った。

ーードラマの主題歌としてカバーされた「男の勲章」は、もともとは銀蝿の弟分としてデビューした嶋大輔さんの曲で、Johnnyさんの作詞作曲でしたよね。

翔:「男の勲章」は、80年代当時もドラマ主題歌としてヒットしたし、夏の甲子園で応援団がブラスバンドで演奏してくれていて。この年齢で涙もろくなったものだから、負けた高校球児に涙して、「男の勲章」が流れたことにも涙して(笑)。それが『今日から俺は!!』に取り上げられたことで、野外フェスなんかで歌うと、小学生の小さい子がドラマのオープニングのダンスを踊ってくれて、それが本当に嬉しくてね。

ーー『今日から俺は!!』効果ですね。

翔:でも、同時に「ドラマの曲をカバーしてる」と言われることもあって、それがちょっと腹立つわけです(笑)。大輔にあげた曲だけど、当時の俺らのアルバムにも銀蝿バージョンを収録しているから、俺らの曲だという自負もあって。子どもが踊っているのを見ながら「本家は俺たちだからな!」って、言いはしないけど思います。たまに大輔に会うと、「お前の歌かもしれないけど、俺たちの曲でもあるんだからな!」って(笑)。

Johnny:巡り合わせとかタイミングとか、やっぱりあるんだなって思うよね。1980年に横浜銀蝿がデビューして、当時は暴走族や校内暴力が社会問題になったことで、当時の若者から支持を得ることができた。あの3年前や3年後だったとしたら、同じような支持は得られなかったと思うんです。昨年また80年代がフィーチャーされて、俺たちにこうしてスポットが当たったことも、きっと巡り合わせだったと思います。

ーーデビュー当時、暴走族や不良の文化を取り入れたスタイルでバンドをやるというのは、ある種の狙いみたいなものがあったんでしょうか?

嵐:「狙ってそうやりました」という答えなら格好いいけど、決してそういう訳ではなくて。単にあれが、当時の俺らにとってのリアルだったというだけなんです。

翔:実際に暴走族に入ってたし、横浜銀蝿でデビューするにあたって辞めたんですよ(笑)。

Johnny:90年代にルーズソックスが流行って、世の中のほとんどの女子高生がルーズソックスを履いていたように、80年代は暴走族が社会問題にもなったけどブームになっていて。もちろん本気でやっている不良もいたけど、ファッションとしてやっているやつもいて、集会に何千台もバイクや車が集まることが、当たり前の現象としてあった。だから暴走族に入って走っていることは、当時は珍しいことでも何でもなくて。

翔:日本全国がそうだったとまでは言えないけど、暴走族に入っていなくても、車やバイク好きなら一度は集会に行ったことがあったと思う。

ーー当時の音源には、よくバイクの音が入っていましたけど。

翔:あれは、実際に改造バイクなんかが集まっているところにラジカセを持って行って、みんなにエンジンをふかしてもらって録ったんです。本当の集会の音を録って使ったから、暴走族のやつらは本物の音だと分かってくれて、それですごくファンになってくれたりしていました。

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