稲垣吾郎が紡いだ『ぼくほし』の“生きる”物語から草彅剛主演『終幕のロンド』へ 演技を通して繋ぐリレー
稲垣吾郎が出演したドラマ『僕達はまだその星の校則を知らない』(カンテレ/フジテレビ系)が9月22日に最終話を迎えた。『ぼくほし』の愛称で親しまれた本作は、生徒、教師、保護者……と、学校を中心に集う人たちの思いを一つひとつ丁寧にすくい上げていった物語だ。
学校は“勉強する場所”であると同時に、“人が生きることを学ぶ場所”。しかし、学問だけにとどまらず、生活指導や部活の顧問など、日本の教育現場のスタイルでは教師の負担が大きすぎるという課題も。「これは実際問題、どうしたらいいんでしょうね」と、最終話を迎えても答えは出ないままだ。
だが、それこそが本作の本質だろう。問題は一度に解決できるものではなく、声を上げ続けることで少しずつ変化していく。すぐにすべてを変えるような“たったひとつの答え”など存在しない。そんなリアリティと、自発的に始まるディスカッションに“新たな星の誕生”と言いたくなる希望が交差した、令和らしい学園ドラマだった。
なかでも、稲垣が演じた理事長・尾碕は、学校を取り巻く理想と現実のコントラストを明確にする重要な役だった。もともとは旧態依然とした公立校のあり方に疑問を感じ、私立校で理想的な学校を目指そうとしていた。しかし、立ちはだかったのは教育の理想論ではなく、経営難という現実的な課題。「生徒や教師たちにとってより良いことは何か」を考えるよりも前に、学校を存続させるための判断を迫られる日々。理想に燃えて前進できる瞬間と、なかなかうまくいかずに打ちひしがれる瞬間。そのギャップに揺れる姿は、大人ならば誰もが共感できるはずだ。
そして日々、葛藤に折り合いをつけるうちに「こういうもの」と諦めるように凝り固まってしまう何かがある。自分が感じた絶望の分だけ、気づかぬうちに次世代の若者に「現実とはこういうものだ」と押し付けたくなることも。
あれほど嫌っていた“旧態依然”の一部に、自分自身が取り込まれていく皮肉。尾碕はその矛盾に苦しみながらも、本質的な解決には至らない歯がゆさに苦しんでいた。そんな“こじらせた大人”を稲垣はじつに魅力的に演じてくれた。
『ぼくほし』と同時期に挑んだ舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』でも、稲垣は大人になったちょっとこじらせたハリーを好演していた。魔法界の英雄でありながら、息子との関係には不器用な父親。外では称賛を浴び、家に帰れば悩める親。そのギャップは、稲垣が持つスター性と人間味の両面と響き合っているように思えた。






















