『蓮ノ空』が描いた“卒業”は終着点か、通過点か? “実在性”を示したリアルタイム型コンテンツの可能性
卒業とは、学生生活の終着点であり、新生活の幕開けとなるイベントだ。慣れ親しんだコミュニティに別れを告げ、新たな環境へ身を置くことを余儀なくされる。それは、現実でも創作でも、学生の時間が有限である以上、避けては通れないイベントだ。『ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ』(以下、『蓮ノ空』)も、その例に漏れず、今年3人のメンバーの卒業が描かれた。
『蓮ノ空』は、高校生活における部活動の一環としてアイドル活動を行う、スクールアイドルたちの群像劇を描いた『ラブライブ!』シリーズの1つだ。そんな『蓮ノ空』最大の特徴は、『Link!Like!ラブライブ!』(以下、『リンクラ』)というアプリを媒介に、スクールカレンダーと連動しながら、配信/ライブ活動を行うリアルタイム性にある。簡単に言ってしまえば、少女たちは我々と同じ時間を生きて、同じように歳を取り、そして3年の時を経て学舎から巣立っていくのだ。
2024年度は、“蓮ノ大三角”の通称で親しまれた、乙宗梢、夕霧綴理、藤島慈の3人、蓮ノ空女学院102期生が学舎を去ることになった。今年3月30日には、『リンクラ』内にて『104期 Final Term Fes×LIVE -蓮華祭- ~102期生 卒業ライブ~』と銘打たれたバーチャルライブが開催。実在性を重視する『蓮ノ空』において、彼女たちのパフォーマンスは画面の中ではなく、常に画面の向こうにいるファンへと向けられている。それは、“卒業ライブ”においても変わらなかった。画面を通して、実直かつ切実に届けられた“再会”の約束と“永遠”の祈りを込めたパフォーマンスは、残された下級生だけでなく、ファンの心をも強く打った。
その翌日には、102期生が蓮ノ空から去っていく活動記録(『蓮ノ空』におけるストーリー)が更新。桜並木へと消えていく3人の背中が霞んで見えたのは、目に汗が入ったからだろう。だが、ここまで『蓮ノ空』の卒業が、多くのファンに寂しさを与えながらも、心を掴んで離さないのはなぜなのだろうか?
『ラブライブ!』シリーズにおいて、卒業とは決して珍しいものではない。シリーズ1作目『ラブライブ!』、2作目『ラブライブ!サンシャイン!!』、そして2024年に放映された『ラブライブ!スーパースター!!』アニメ第3期でも、メンバーの卒業は描かれ続けてきた。それが与えられた使命であるかのように、少女たちとファンへ“有限性”との向き合い方を問いかけるのだ。
それは『蓮ノ空』においても例外ではない。だが、今までのシリーズと『蓮ノ空』では、大きな違いがある。それは、卒業が物語の終着点として設定されているか否か、という点だ。
前提として、スクールアイドルである時間は、あくまで少女達の人生の一部であって、すべてではない。卒業した少女には、クリエイターの手からも離れた、その後の人生がある。それを証明するように、『ラブライブ!スーパースター!!』では、メンバーの卒業後の進路が示唆されていたのが印象的だった。
しかし、それがわかっていてもアニメという媒体の都合上、卒業が“終着点”として設定されるのは常だ。どれほど「彼女たちの人生は終わらない」とわかっていても、壮大な音楽とともに流れるエンドロールを見れば、否が応でも“終わった”という意識が襲ってくるだろう。アニメ媒体が与えてくれる感動は、視聴者へ“終わり”の意識を芽生えさせることにも繋がっている。
『ラブライブ!』がスクールアイドルの物語を描く以上、その肩書を失う卒業が終着点になるのは自然な流れだ。だが、彼女達はスクールアイドルである前に、1人の人間だ。当然、卒業後の人生がある。もちろんクリエイターもそれを理解しているだろう。そうでなければ、あえてスクールアイドルの物語の中で、“そうでなくなる人間の未来”を示唆する必要はないはずだ。
一方『蓮ノ空』は、スクールカレンダーと連動して動くリアルタイム型のコンテンツ。そのため、3年生が卒業すれば、間髪入れずに新入生が入学してくる。実際、先日4月10日には、新たにスクールアイドルクラブへ加入したメンバーのお披露目配信が行われた。102期生の卒業から、2週間も経たないうちの出来事だ。心の整理をつけられないまま、新入生を出迎えたファンも多かっただろう。