宇多田ヒカルは不完全な人生を祝福する 「Electricity」リミックスやツアー写真展に滲む“繋がり合う美しさ”
全ての観客の25年を彩った『SCIENCE FICTION TOUR』
宇多田ヒカルという存在が、筆者にとって重要な意味を持ち始めたのは、2018年のツアー『Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018』のライブ映像に触れた時からだった。ちょうど個人的にも、信じるものが揺らぎ、失われ、戸惑う、そんなようなタイミングだったからかもしれないが、自身もおそらく、立ち止まり、失い、同時に得るものもあったであろう時期を超えてステージに立っていた当時の宇多田の姿は、筆者にとって暗闇に差し込む温かな光のように感じられたのだった。きっと、多くの人にとってもそうだったのではないだろうか。
そんなこんなで改めて宇多田ヒカルの楽曲を聴いてみると、それがラブソングであれ、自分の人生から立ち去ってしまった人や、その人にできなかったことへの想いを、独白のように自分自身に語るナンバーが比較的多いことに気づかされる。つまり、人生における後悔、失ったもの、あるいはそこから得たものをまるっと抱擁して、あるがままの人間を愛する――宇多田の歌にはそういう根源的な人間愛が通底しているように思えたのだ。そしてその考えは、昨年のツアー『SCIENCE FICTION TOUR 2024』を観ていよいよ強くなった。
デビュー25周年を記念したツアーとあって、「time will tell」「In My Room」など意外な初期の曲も序盤から飛び出し、「DISTANCE - m-flo remix」からハウスビートが高鳴る新録バージョンの「traveling」へとなだれ込んでいくクラブタイムには筆者も大いに踊り盛り上がったもの。そしてふと客席を見渡して驚いたのが、老若男女が集う、その客層の幅広さだ。考えてみると、A.G.クックとの接近以降の宇多田の楽曲は特に、フロアライクな音像やビート感も強く打ち出し、ハイパーポップとジャズ/ファンクを掛け合わせたような先鋭性も伴っている。にもかかわらず、文字通り国民的なポピュラリティをも兼ね備えていることをその場で実感し、なんとも不思議な気持ちになった。
慣れない様子で時々シャイにはにかみながらも、数万人の観客一人ひとりに喋りかけるように自分の言葉を紡いでいくMCも印象的だった。遠くの席のファンに対しても「声や想いが届いているか」と思いやっていたのも温かだったし、楽曲を歌っている最中にもステージを練り歩きながら(物理的には不可能にもかかわらず)客席の一人ひとりの顔を見ようとしている様子に、心の温度の近さを受け取ったのだった。
特に感慨深かったのは、MCを挟んで「あなた」と「花束を君に」という、親子関係を彷彿とさせる歌詞に宇多田の死生観が見て取れる2曲を続けたパートだ。配信で観ることができるツアー最終日のMCで本人が語っている通り、自分が与えられたもの/与えられなかったもの、誰かに与えることができたもの/できなかったものが、宇多田本人だけでなくこの場にいる全ての観客の25年を彩りここまで連れてきてくれたのだ、という実感をこの2曲には確かに抱いた。そしてまた、人生の悲喜交々の全ての色で染め上げたような虹色の衣装を纏って歌う宇多田の姿には、つい自分の来し方をも重ねてしまっていたのだった。
ツアー期間中、宇多田の楽曲に自らの人生体験を重ね合わせ感極まった感想もSNSで多く目にしたが、やはりきっと、目の前の宇多田の温かさや飾りのない姿が、その場にいた一人ひとりの中にある、後悔や喪失、それと共に受け取ったものを肯定して抱擁してくれたからではないだろうか。完璧じゃないかもしれないけれど、そんな人生を祝福する……だから、宇多田ヒカルの歌は多くの人にとって宝物になっているのだろう。
9名の写真家、それぞれの視点で捉えた宇多田ヒカル
そんなツアー『SCIENCE FICTION TOUR 2024』の国内外9都市でのライブの様子を、それぞれ9名の写真家が撮影した写真展『HIKARU UTADA SCIENCE FICTION TOUR 2024 NINE STORIES』が現在、東京・神保町のNew Galleryで開催中だ。参加した写真家は現代の写真界をリードする作家ばかりで、19歳の時の宇多田を撮影し、母である藤圭子も撮影したことがあるという巨匠・森山大道もその名を連ねている。
9名の作家の写真にはそれぞれにテーマが設けられており、切り取り方も様々。モノクロかカラーか、というわかりやすい違いもあるが、実際に作品を生で見てみると写真のサイズから額装、飾り方や配置、写真紙の上の色味や質感まで、まるで異なっていることに気づかされる。
またこのプロジェクトの写真は、必ずしも宇多田ヒカルという被写体が鮮明に写っているわけではなく、あえてボケていたり、顔が写っていなかったり、身体や機材の一部にだけグッと寄ったりしたものも多い。記録的な役割も大きいライブスチールとは異なり、それらの表現からは作家一人ひとりの私的な目線を感じ取ることができるだろう。例えば、「同時性」をテーマにしたホンマタカシ(大阪公演を担当)の作品は、ライブと同じタイミングの大阪の街を切り取ったドキュメントタッチのものだし、兼ねてからファンだったというJohn Yuyi(台湾公演を担当)の作品は、「自己投射」をテーマに、宇多田を一心に見つめる熱く潤んだ目線そのものを滲んだボケ味で表現しているかのようでもある。
そんなコンセプトには、参加した観客の人生を祝福するようなライブツアーでの宇多田の様子との繋がりも感じられる。あの日・あの場所で宇多田ヒカルと過ごした時間を反芻しながら、それが一人ひとりの人生のシーンの1ピースであるということを、この展示は思い出させてくれるのだ。それぞれが参加した宇多田ヒカルのあの日のライブを通じて感じ取ったことを、写真家の視点を通して、鑑賞する人もまた追体験することができるはずだ。