新体操選手から作曲家へーー林ゆうきが語る劇伴音楽の未来、子を持つ父としての生き方「オンオフは切り替えない」
劇伴作家・林ゆうきの音楽の原点は、男子新体操の競技者時代にあった。伴奏音楽が演技に与える影響に魅了され、独学で音楽制作の道を歩み始めた林。その後、澤野弘之との出会いを機に劇伴作家としてのキャリアをスタートし、『僕のヒーローアカデミア』や『ハイキュー!!』などの名作の音楽を手がけてきた。音楽に向き合い続ける中で、インプットの源となる競技時代の経験、劇伴コンサートへの想い、家族と共に過ごす日々が彼の創作活動にどのように影響を与えているのか。本インタビューでは、林が劇伴というジャンルに込める熱い想いと、新たな挑戦について考える劇伴音楽の可能性と未来を掘り下げる。(編集部)
林ゆうき、“音楽制作”との出会い
——新体操をやっていた競技者から音楽家へ転身された林さん。なぜ音楽に興味を持ったのでしょうか?
林ゆうき(以下、林):男子新体操はフィギュアスケートのように後ろに“伴奏音楽”が必要な競技なんです。もちろんスポーツ自体もすごく好きでのめり込んでやっていたので、大学生まで続けていました。競技の中で、先輩の演技に使用する楽曲を流すのは後輩の役目だったんです。(男子の場合は)個人の演技だとスティック、リング、ロープ、クラブの4種目あって、当時は「⚪︎⚪︎先輩のスティックの演技」「⚪︎⚪︎先輩のクラブの演技」ってカセットテープで入れ替えていて。たとえば「B面を4回まわしたくらいのところがいい感じに始まるよ」と後輩が申し送りをしながら音楽を掛けていたんですね。
ある時、僕は演技に使う曲を間違えてしまい、リングの演技なのにスティックの演技の曲を掛けたことがあって。「あいつ、やらかしたぞ!」となったけれど、先輩はそれを知らずに動き出したんです。曲が終わる前に途中で演技を止めてしまうと減点になるので、先輩はそのまま違う音楽で演技をやりきったんです。その時に、同じ構成なのに後ろで掛かっている音楽が違うだけで演技が全く別の印象になることを目の当たりにして、それがすごく面白かった。要はサウンドトラックで印象的なシーンがあったとして、それが違っていたなら視聴者に与える印象は違うということを感じたんです。そこから、自分の中で伴奏音楽が気になるようになりました。
——そこから音楽制作の道へと進むようになったんですね。
林:はい。男子新体操用に編曲されている楽曲を集めるようになって、その原曲を聴いてみると、クラシックをダンスアレンジしたものや、ハードロック風に編曲されたものなど、同じメロディでもアレンジ次第で大きく印象が変わることに衝撃を受けたんです。それで大学3年生くらいの時に競技者として活動しつつも伴奏音楽に向き合う時間ができたので、競技用の曲を自分で編集できたら楽しいかなと思うようになり、お年玉を握り締めて秋葉原に「音楽編集ができるパソコンセット」みたいなものを買いに行って。それが音楽制作を始めたきっかけで、作曲というよりも最初は編集からのスタートでしたね。
——その後、作曲家としての活動を本格化させていったのでしょうか?
林:大学卒業後も男子新体操に関わる仕事ができたらとは思っていたのですが、当時の男子新体操は今よりも知名度が低く、仕事として選べる実は限られていたんです。学校の先生になるか、指導者になるか、トレーナーになるかくらいしか選択肢がなかった。ただ、自分自身伴奏曲はすごく好きで音楽に興味があったので、それなら伴奏曲を制作する仕事をしようと決めて、競技生活を引退したその日に、当時MDに入れていた自分が編集したデモ音源を会場中の指導者の方々に配ったんです。その後、男子新体操の音楽を6、7年くらい続けていたら、おかげさまで男子新体操の伴奏曲の7〜8割ほどのシェアを持って、高校生や大学生の音楽をやらせてもらっていました。ただ、続けていくうちにマンネリを感じ始めていた頃、大きな出会いがあったんです。
劇伴作家デビューのきっかけとなった澤野弘之との出会い
——その出会いとは?
林:楽曲を依頼してくる選手は「この曲で踊りたい」って自分の好きな曲を持ってくるのですが、『海猿』が流行ったときには佐藤直紀さんの曲を、『もののけ姫』が流行ったときには久石譲さんの曲を持ってくるし、『踊る大捜査線』が流行れば松本晃彦さんの曲を持ってくる。そういった流行りがあった中、ある時から“ある人”の曲を持ってくる選手がすごく増えてきて、しかもその曲がすごくかっこよかったんです。それが澤野弘之さんの楽曲でした。
——澤野さんの音楽の印象というと?
林:僕が「ずっとやりたいと思っている音楽」ですかね。それに一番近い形のものを第一線でやられている方がいらして、しかも同じ年で……「俺はなにをやっているんだ」と悔しくなって、すぐに調べました。HPを見たら、当時問い合わせのところに普通に澤野さんのメールアドレスが載っていたんですよ。「これは、送らない手はない」と思って、「はじめまして。林ゆうきと申します」と思い切ってメールをしました。「男子新体操をやっていて、その曲を作っているものですが」と、僕の曲を使用した演技の映像を「よかったら聴いてください」って送ったんです。当時、もちろん返ってくるはずないと思っていたのですが、翌日に「澤野です」って書いてあるメールがピョン! と届いていて。「はじめまして。澤野弘之です」ってすごく丁寧なお返事で。「楽曲、いいなと思いました。よかったらうちのマネージャーに会ってみませんか」と言っていただいて、それが縁で澤野さんが所属されていたLegendoorの社長さんにお会いしました。
——そこから劇伴作家としてのデビューに繋がるのですね。
林:新体操で作った曲を基に作ったオリジナル曲を澤野さんに聴いてもらっていたのですが、その楽曲を各所に展開してくださっていたらしく、それがきっかけで関西テレビ開局50周年記念ドラマ『トライアングル』の監督さんが「この曲をそのままメインテーマに使いたい」と言ってくださったんです。既存曲ですから、僕はデビュー作のメインテーマを、正確に言うと「作品のために書いてはいない」ことになるんですよね。同時に自分が男子新体操のために作っていた音楽が、サウンドトラック、劇伴として視聴に応えられるものになっていたんだなぁ、ということは自信になりましたし、すごく嬉しかったです。
——音楽大学を出て劇伴作家になられる方も多い中、独学でサウンドメイクをされる林さん。楽曲をアウトプットするためのインプット方法はあるんでしょうか。
林:新体操競技者時代、試合に行くとすさまじい数の選手の曲を耳にするんです。それぞれの選手が「この曲で踊りたい」「観客を沸かせたい」「自分が踊りたくなる曲を選びたい」と思うような、マイフェイバリットの上位4曲を持ってくるんですよね。そうなると、キャッチーでメロディックな曲が自然と選ばれる傾向がある。全員がそういった曲を選んできますし、試合に行けば何十人、時には何百人もの選手のトップ4の楽曲を聴くわけですから、自ずとキャッチーなものや壮大なメインテーマが、自分のフィルターにどんどん蓄積されていきました。
学校で練習をしていても、何十回、何百回、何千回と繰り返し聴き込むので、メインテーマの構成やキャッチーなリフ、そこからリズムが始まって、メインテーマが流れ、繰り返していく流れが自然と頭に入っていました。インプットという意味では、音楽を始める前の、新体操の競技者だった時の経験が大きいと思います。
それ以外のインプットは、基本的に仕事を通して新しいジャンルや流行のポップスを取り入れること。「どの曲を聴いても林さんらしいですね」と言っていただけるよう、自分らしさは大切にしつつ、新しい要素を加えるようにしています。そのために、Spotifyをさまよったりしながら、新しいジャンルを研究している感じです。
——そうして始まった劇伴作家生活ですが、その手法はどう学んでいったのでしょうか。
林:わからないことは山のようにあったし、恥ずかしい失敗もたくさんやりました。最初のレコーディングは、梶浦由記さんのライブでマニュピレートをされている大平佳男さんに手伝っていただきました。大平さんはすごく細かくアドバイスしてくださる方で、「林くん、そこはこうした方がいいよ」とか、「澤野さんを見てごらん。いつも時計を見ているでしょう? あれは1曲が何分で録れるかを計算しているんだよ」と教えてくださる。
それまで僕はずっと1人でDTMを使って男子新体操の曲を作っていたので、レコーディングの現場のお作法や進行方向をまったく知らなかったんです。たとえば「今のテイクを残しておいてください」という基本的な指示も自分で覚えていればいいやと思ってしまう。言わないと伝わらないのに。それを「林くん。レコーディングではミュージシャンやディレクター、アシスタントのエンジニアさんといった複数の人がかかわるから、それぞれに自分の思っていることを言わないと、伝わらないんだからね」と言われて、そうか! と思いました。これまで1人で音楽を作っていたから、自分でわかっていたらいいと思っていたけど、そうじゃないんだ、とか。基本的なことをしっかり教えてもらえましたし、澤野さんの作り方もとても勉強になりました。
お忙しい方ですが、「これで合っているんですか」と電話で尋ねさせてもらったり、丁寧にチェックしてもらったりもしていたので。Legendoorに所属していた頃に、そうした基本的なことは学べたのは大きな経験になりましたね。さらにスタジオミュージシャンの方々は百戦錬磨の方たちばかりなので、「この書き方だとわかりにくいからこうした方がいいかもね」とか「こっちの方が伝わりやすいよ」とアドバイスをくださいました。こういう機会に恵まれたことは、本当に財産だったなと思っています。