OGRE YOU ASSHOLEが追い求める“完全な不完全状態” 閉塞的なクリエイションへの静かな問いかけ
OGRE YOU ASSHOLE(以下、OYA)が、前作から5年ぶりとなるフルアルバム『自然とコンピューター』を発表した。昨年のEP『家の外』以来、俄然存在感を増してきた電子音が、もう一段階も二段階も大胆かつ効果的に用いられ、バンドの演奏との一種異様な配合ぶりを聴かせている。今作は、常に自らの演奏・録音表現の刷新を続けてきたOYAの長いキャリアを振り返ってみても、特に野心的な内容と言えるだろう。共同作曲・作詞を務めるフロントマンの出戸 学(Vo/Gt)に、新機材の使用法をはじめとする制作の実際から、「創造性」に関する思索・問題意識に至るまで、じっくりと話を聞いた。(柴崎祐二)
アナログシンセから生まれる歪みやちぐはぐ感
――前作EP『家の外』でもシンセサイザー類が多用されていましたが、今回のアルバムはそれにも増してエレクトロニックな要素が強くなっていますね。
出戸 学(以下、出戸):コロナ禍の頃からバンドの中でシンセサイザー熱が高まっていて、今回はそれがはっきりと反映されていると思います。もともとメンバー全員シンセは好きだったんです。特に勝浦(隆嗣/Dr)さんは学生時代からハマっていて。けど、30代になる頃にみんな一気に処分してしまったんです。
――ここ数年で再燃したということなんですね。
出戸:そうです。コロナ禍で何もやることがなくて、はじめは僕がちょこちょこ買い始めたんです。そしたら、みんなも「やっぱりシンセは面白いよね」というモードになってきて。
――以前の作品でも、そこまで主要な役割ではなかったとはいえ電子音自体は入っていましたよね。
出戸:はい。けど、その頃は中村(宗一郎/エンジニア)さんのスタジオにあるものを使って上モノとして入れるくらいで。今回はみんなで買い集めたものを作曲の段階から使っています。
――基本はデジタルじゃなくて、アナログシンセサイザーですか?
出戸:そうですね。僕が持っているものでいうと、Buchlaとか、Minimoog、Oberheimとかのアナログシンセが主です。勝浦さんはモジュラーシンセサイザーもいろいろ持っているんですが、あそこまで行くと僕もまだちょっとよくわかってなくて(笑)。
――ライブのときもパッチケーブルだらけのモジュラーシンセが置かれていますよね。
出戸:はい。あれも勝浦さんのものですね。今回のアルバムでも一部使ってます。
――じゃあ、アルバムの中で聴ける電子音のループは、DAW上の操作とかではなくて、そういう機材とシーケンサーを駆使して作っているわけですね。
出戸:そうですね。デジタルのハードもほんの少し使ってるんですが、それも結局YAMAHAのポータサウンドだったりするので、いかにもデジタル感のあるものというよりも、いわゆるチープな音として足している感じです。
――それらの機材を家で鳴らした音を完パケまで使っているんですか? それとも、中村さんのスタジオへ実際に持ち込んで録ったんでしょうか?
出戸:全部持ち込みました。中村さんのところにあるマイクプリアンプとかエフェクターに通すと、やっぱり全然違ったいい感じの響きになるので。「むっちり感」が増すというか。
――なぜそこまでアナログシンセサイザーの音に惹かれるんですかね?
出戸:なんでだろう……デジタルの音に比べて、ただ気持ちよく感じるんですよね。
――それを生楽器と合わせていくと、特有の快楽性が生まれる?
出戸:そうですね。例えば、シーケンスしてリズムがフラットになっている状態に対して勝浦さんの叩くドラムが乗っていくと、それだけで妙なグルーヴ感が生まれるんですよ。例えばTR-808みたいなドラムマシンとシンセを同期させたときとは全く違った気持ちよさがありますね。
――なるほど。そういう使用法だからこそ、「ビート」や「トラック」というイメージじゃなくて、ジャーマンロックとか、ドイツの電子音楽〜プログレ的なニュアンスを感じられるのかもしれないですね。1970年代半ば頃のKraftwerkのサウンドを想起させるところもあったり。そのあたりの音楽は前々から聴いていたとは思いますが、ここ最近でもっと好きになった感じですかね?
出戸:そうですね。Kraftwerkに関しては、勝浦さんがもともとすごく好きで。特に、『アウトバーン/Autobahn』(1974年)とか、『放射能/Radio-Activity』(1975年)の頃。勝浦さんに指摘されて気づいたんですけど、あの頃のKraftwerkのシンセの音って、リズム的に少し揺れているように聴こえるんですよね。ロボット的なコンセプトのはずが、意外にも人間っぽいグルーヴを感じるっていう。僕らとしても、シンセを取り入れる場合は完全にスクエアなものじゃなくて、そういう機械だか人間だかわからないものをやりたいなという気持ちがあるんです。
――「アナログシンセサイザー+人力のリズム」という構図でいうと、まずはYMO(Yellow Magic Orchestra)の存在が思い浮かぶわけですけど、OYAの場合、不思議なほどにYMO感、言い換えるならテクノポップ感が薄いというのが面白いです。
出戸:確かに影響を受けている自覚はないですね。でもまあ、ことさらにドイツ産の電子音楽っぽさを目指そうとしていたわけでもなくて、「なんかこうなっちゃったんです」っていうのが近いかなと(笑)。
――リズムの話もそうですけど、電子音を大幅に取り入れたことで、フレーズの絡み合いとかテクスチャーの配合という面でもいい意味での「ちぐはぐ感」がある気がして、それが新味になっているなと感じました。
出戸:実際そこは結構意識しました。ある時期以降の僕らの曲って、例えば「これはサイケっぽいもの」「これはワンコードのミニマルなもの」「これは浮遊感のあるメロウなもの」みたいに曲調ごとのキャラクターがわりとはっきりあったと思うんです。けれど今回は、アンサンブル面でもリズムの面でも、曲ごとに想定されるキャラクターとあえて整合性が取れなくなるような断片を入れ込んだり、逆に省いたりしていて。
――そういう「ちぐはぐ感」でいうと、1曲目の「偶然生まれた」に関しては、少しダブっぽさもありますよね。正直なかなか意外な感じがしました。
出戸:実はこれ、最初のミックスの段階ではもっとあからさまにダブ的だったんですけど、少し抑えてもらいました(笑)。結果的にいい塩梅に妙な感じになったかなと思います。
――それと、「君よりも君らしい」や「お前の場所」、「影を追う」といった前半の曲に顕著だと思うんですが、ファンク度がより一層増したように思います。それこそ、かつてアフリカ・バンバータがKraftwerkの音にファンク性を見出したのと似たような視点を感じるというか。
出戸:なるほど、それは面白いな。
――マシーンに本来内蔵されている「フィジカル性」みたいなものが、かえって引き出されている感じがします。
出戸:確かに、さっき話したように勝浦さんのドラムとシーケンスが交じると、スクエアなはずの電子音の連なり自体が歪んでくるような感触があります。そういう意味で、もう長いこと一緒に演奏しているにも関わらず、今回改めて勝浦さんのプレイには感心してしまいましたね。なかなかいないタイプのドラマーじゃないかなと。
「“曲が整合性を持ち始めたな”と感じると、そこで引き返すこともある」
――レコーディングの時にクリックは使っていますか?
出戸:いや、使ってないです。あくまでシーケンスのフレーズを「演奏」として聴きながらプレイしてます。それって簡単そうに聞こえるかもしれないんですが、いざやろうとすると結構大変なんですよ。本当に慣れと鍛錬が必要で。
――他方で、ギターの「ギターらしさ」がこれまで以上にかなぐり捨てられている感じがして、それもまた痛快でした。一瞬、どこに入ってたっけ? と思うくらい(笑)。
出戸:自分でもギターの存在を忘れていることがありました(笑)。
――もちろん、効果的なサウンドとしてポイントごとに絶妙な役割を果たしてもいますよね。「君よりも君らしい」に挿入されてるアコギのストロークなんて本当に魅力的だし、ちょっとサンプリングっぽさすらあって。
出戸:遡ると『homely』(2011年)の頃からそうなってきてはいるんですが、ギタープレイヤーとしての自我よりも、「どうすればいい作品が作れるのか」という意識が先に来るので、今回はそれをさらに徹底した形です。
――アルバム全体から感じるのは、なにがしかのはっきりした設計図なり構造を頭の中で一旦完成させた上で制作をしているというよりも、もっとアブストラクトで迷路めいたプロセスが刻まれている印象なんですが、そのあたりについて、出戸さんご本人としてはいかがですか?
出戸:さっきの「ちぐはぐ感」の話に繋がると思うんですけど、全てを整合的にピシッと噛み合うように作っていくというより、あえて齟齬やズレを持たせていくという意識があって。かといって、ただ特定の違和感を埋め込みたいということではなくて、もっと「外部」を感じさせるものにしようと試行錯誤しているというか……。
――先日公開された郡司ペギオ幸夫さんとの鼎談でおっしゃっていた、「外部」から「やってくる」ものの話にも通じているテーマですね(※1)。
出戸:そうです。あえて「普通」のアレンジを避けたり、思いもよらないアイデアを積極的に取り入れたり、これまでも僕らはどこかに不完全さを持った表現を探求してきたつもりなんですが、その感覚を自分ではうまく言語化することはできなかったんですよね。けれど、郡司さんの『やってくる』という本を読んで、そのことがようやく理解できた気がしたんです。創造というものは、全くの「外部」からふとした瞬間に「やってくる」ものによって成し遂げられる何かなんだ、と。自分で曲や歌詞を作っていても、いろいろ機材をいじったり音を抜き差しして試行錯誤している中で、なぜそう感じるのかはわからないし、外見上は「未完成」としか言いようがなくても、自分では明確に「完成した」と断言できる瞬間が訪れることがあるんですが、そういう営み、つまり創造体験にも実は一つの論理があるんだと気づかされたんです。
――逆に言うと、あまりにシュッとしていたり、要素と要素がピシッと噛み合っているスマートなものができたとしても、それをもって「完成」したとは感じないということですか?
出戸:そうです。仮にそういうものができたとしても「ここには何も起こってないな」と思ってしまうんです。別に「正解の音」を求めているわけじゃないし、「曲が整合性を持ち始めたな」と感じると、一旦そこで作業を止めたり引き返したりすることも多々あります。理想としているのは、想定される全体のフォルムとそれを構成する断片がズレてしまっていて、でも単純に違和感とも言い難い、何か違った次元に繋がっている……そういう状態ですね。
――これは多分に音楽ジャーナリズム側の問題でもありますけど、そういう、創造行為における「完全な不完全状態」みたいなものって、ともすると一般的な批評の言説からは捨象されてしまいがちなものでもありますよね。どちらかといえば、「こういう音楽ジャンルのこういう要素が引用されていて、こういう流行のこれこれという要素とこういう文脈の元に巧みに掛け合わされていて、こういう文化理論が適応できるから立派だ」みたいな把握の仕方がここ最近特に覇権を握っていると思うし、もっと極端な例だと、マーケティング論や音楽産業論みたいなものが美学的分析よりも前面に立っている場合すらあって。
出戸:よくわかります、はい。
――話しながら他でもない僕自身が深く省みるモードになってしまうんですが……。さらに言えば、受け手に限らず、作り手側がそういう思考法や表現手法を内在化している場合も多々あると思いますし。
出戸:本当にそうなんですよね。そういう音楽を聴いても、さっき話したことと同じで「何も起こってないな」と思ってしまうんです。もちろん、論理的な思考を重ねていって、カチッとすべてがハマったときの快感というのもあるとは思うんですけど、それを自分でやるなり聴くなりしても、「なるほどそうですか」という気持ち以上にはならなくて(笑)。一見ちぐはぐな要素をかけ合わせて、いかにも妙なものを作ってやるぞっていうプロセスを経て出てきたものが結局整合的で閉じたものになっている場合もよくあるじゃないですか、「J-ROCKとテクノを融合させて云々」みたいな……。ああいうのも根源の部分では「よくできたもの」と同じだと思います。