SUPER BEAVER 柳沢亮太、人生の切実さを包み隠さない作詞 WEST.、生田絵梨花ら提供曲にも一貫性

 SUPER BEAVERのライブを観るたびに、それぞれの楽曲に宿る言葉の力に圧倒されてしまう。音楽を評する上で多く用いられる表現の一つとして、「メッセージ性が強い」というものがあるが、SUPER BEAVERの多くの楽曲の作詞・作曲を手掛ける柳沢亮太(Gt)が綴る言葉は、もはやそうした表現が遠回しに思えてしまうほどに直球なものばかり。一つひとつの言葉、その全てがメッセージそのもの。それが熾烈に昂るエモーショナルなバンドサウンド、そして、柳沢の言葉の力を最大出力して届ける役割を担う渋谷龍太(Vo)の歌声によって、深く胸に響き、否応なく激しく心を震わせられる。

 柳沢が綴る言葉には確固たる一貫性があり、特に2020年のメジャー再契約以降、その軸はさらに太く揺るぎないものになっているように感じる。では、そのメッセージとは何か。それは、バンドからリスナーへ一方的に届けられる「こう生きるべき」といった人生訓では決してなく、「このように生きたい」という願いや祈り、覚悟、または「どう生きるか」という問いのようなものであると筆者は考えている。例を挙げていけばキリがないが、例えば、2月にリリースされた最新アルバム『音楽』の中では、このような願いや祈り、覚悟、問いが歌われている。

〈それは/ごめんねに込めた ありがとうのよう/ありがとうに込めた ごめんねのよう/連なった本当で グラデーションになった/曖昧の中から 愛を見つけ出せたなら/信じられたなら〉(「グラデーション」)

〈結局/一生懸命 一生懸命に/ただ一歩 でも一歩 明日へ って繰り返す/信じることが 大前提ならば/これまでも これからも ひたむきに〉(「ひたむき」)

〈歓ぶあなたと生きていくだけさ/幸せのために生きていくだけなのさ/歓ぶ姿に どれだけ救われてきただろう〉(「幸せのために生きているだけさ」)

〈儚いから美しいなんて/命には当てはまらなくていい/慣れないから美しいんだねって/笑いながら しぶとく 僕は 生きていたいよ/願わくば 一緒に〉(「儚くない」)

 私たち一人ひとりのリスナーが、日々の営みの中で、迷い、嘆き苦しみ、葛藤し、時に立ち尽くしてしまうことがあるのと同じように、SUPER BEAVERの4人も、約20年間にわたって、決して平坦ではない道のりを時に悔しさや怒りを抱きながらも懸命に歩み続けている。それ故だろうか、柳沢が綴る言葉は単なる綺麗事などでは決してなく、そこには、自らの生き方に対する切実な願い、祈り、覚悟、問いが、その切実さを包み隠すことなく赤裸々に投影されている。そして、SUPER BEAVERのリスナーやライブの観客の中には、彼らが歌い鳴らす音楽に触れた時、「この歌にふさわしい自分であろう」と奮い立たされるような気持ちを抱く人が多いのではないかと想像する。もちろん筆者もその一人で、その気持ちを抱いた瞬間、私たちは、その歌の単なる受け手ではなく、当事者になる。言い換えれば、柳沢が綴る言葉は、自分こそが自らの人生の主人公であることを思い起こさせてくれる力がある。

SUPER BEAVER「グラデーション」MV
SUPER BEAVER「ひたむき」MV

 冒頭でも触れたように、特にライブでは、その当事者性をより強く感じる。よく渋谷は、「自分たちだけでやる音楽ではなく、あなたと作る音楽をやりたい」「束にならずに“1対1”で音楽をやろう」という旨の言葉をオーディエンスに呼びかける。そのことが象徴的なように、ライブの場では、バンドとリスナーの1対1の関係性をより強く感じられるからこそ、一つひとつのSUPER BEAVERの楽曲が“私の歌”として深く胸に響く。そして、SUPER BEAVERのライブと言えば、4人の歌とバンドサウンドに匹敵するほどの観客の壮大なシンガロングや熱烈なコール&レスポンスが醍醐味だ。SUPER BEAVERの音楽を単に受け取るのではなく、その音楽をSUPER BEAVERの4人とともに歌う。それはまさに、「切望」の中で歌われている〈気持ちの往来〉であり、ともに歌いながら、自分で自分自身のことを奮い立たせるような気持ちを抱いている観客はきっと少なくないと思う。

SUPER BEAVER「幸せのために生きているだけさ」MV (テレビ朝日系『マルス-ゼロの革命-』主題歌)
SUPER BEAVER「切望」MV

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