コブクロに影響を与えたヒットへの並々ならぬ熱意 恩師から教わったJ-POPの厳しさ【評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第7回】
恩返しでもあったベスト盤〜「蕾(つぼみ)」を聴いて流した二度目の涙
そして、翌2006年にはベストアルバム『ALL SINGLES BEST』をリリースすることとなる。
「当時って、まだみんながみんなベストアルバムを出すという時期じゃなかったんです。ミノスケ社長とのミーティングで僕か小渕が“次はベストどうですかね?”って言ったんですよ。それでミノスケ社長が“それは、ほんま吉田社長への恩返しになるぞ!”と。それやったら、僕らもお世話になってるし、恩返ししたいって、吉田社長にプレゼンしたんです」(黒田)
「キャリアはデビューして数年でまだ短いと思ったのですが、無事にベストを出せるという喜びがまずはありました。でも、選曲をどうするかがまったく着地しないんですよ。イメージとしてはベストアルバムって、シングルもあればアルバムの中のこっそりとした曲も入っているというのが1作目のベストかなって僕は思ってたんですね。その時点でシングル曲でタイアップ付きが19曲。そこでシングルだけ収録したベストにしようという発想が生まれて、収録順を楽曲のできた順の逆にして最後に最初にできた『桜』に戻っていく。当時の最新シングル曲『君という名の翼』から始まって『桜』で19曲だったので、新曲『未来への帰り道』をボーナストラックで入れて20曲、ツアータイトルを『Way Back Tomorrow』にして……という形で、曲順が決まったことできれいなストーリーを作ることができた。でも、当時シングルだけでも30万とか40万とか売れる時代で、ファンの方がすでにCDを持っている曲のチョイスで販売してもどうなのかなという不安もありました」(小渕)
「吉田社長の目の輝きを見て、絶対に跳ねるって俺は思ってたんだけど。吉田社長がまた“このプロモーションは任せてくれ”感がハンパなくて。そして、あのCMができて。勝ったなと」(黒田)
敬さんの指揮の元に作られたテレビCMのキャッチコピーは、
「せっかく忘れかけたのに、ラジオがコブクロなんか流すから。
一生忘れない一曲。コブクロ『ALL SINGLES BEST』」
「桜」と同じチームにテレビスポットの制作を依頼し、複数案考えてもらった中でわれわれが選んだキャッチコピーだった。東北新社の中島信也監督の演出のもと、菅野美穂が涙の熱演でCMに華を添えた。
敬さんにも僕にとっても「桜」の時の“鬼軍曹”率いるラジオ班の頑張りが鮮烈に残っていて、無意識にそれを形に残そうと思ったのかもしれない。
そして、その年の秋。2007年1月クールのタイアップ案件が敬さんに入ってきた。
「何回断った? でも不思議な縁で、普段は活字の本なんか一切読まない僕が、たまたま原作本を読んでいたんです」(黒田)
敬さんが、コブクロに楽曲提供を依頼した主題歌は2007年1月クールのフジテレビ月曜9時の枠『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(以下、『東京タワー』/主演:速水もこみち)だった。
映画化もされたリリー・フランキー原作の『東京タワー』は、原作者である主人公のオカンが亡くなるまでの日々を個性豊かな家族や仲間の姿と共に綴った感動作だ。早くに母親を亡くした敬さんには格別な思い入れがあったんだと思う。そして、コブクロの小渕健太郎も18歳の時に、母を亡くしていた。
「リハが終わったら、テーブルのところに吉田社長が座ってて。“また、来た!”と思って、僕らがそのテーブルに座ったら完全にロックオンですよ」(黒田)
「このテーマの書き下ろしは、コブクロにしかできないんだ」
「コブクロがやらないとダメなんだ」
コブクロのリハーサルスタジオに訪れた敬さんは、こう切り出した。
「実はまだその時はお話を受けていなかったから、僕は本を読んでなかったんです。黒田が読んでいたのは知っていて」(小渕)
「お母さんが亡くなるストーリーだった。全部分かったうえで、あまりにも小渕さんの境遇とかぶってるから、それもひっくるめてどうかなと」(黒田)
「それで、なんとかスケジュールの合間を縫って制作ができそうになってから、初めて本を読んだんですよ。皆さんは涙、涙と言っていましたけど、僕は涙というか、ケラケラ笑いながら読めた。全く僕と同じような環境の人がこの本を出しているんやなという感じで。僕は確か黒田にも言ったんです。“これめっちゃおもろかったんやけど”って。黒田も“そんならええかも。そんな風に思ったんや”って」(小渕)
「1年間フル稼働で働いて、唯一の休みが1月だった。そんな話も吉田社長にしたら“無理を承知でやってくれ”と言われた」(黒田)
「ここはコブクロにとって絶対にターニングポイントになるから!」
敬さんの力強い言葉を受けて、2人は抜群の集中力を発揮した。
「黒田と僕でやり取りして1回作ったんですけど、黒田でさえ“ここは、タイアップに寄りすぎや”“もっと小渕さんの思ったことでいいんとちゃう”と言ってくれて。ちょっとずつ僕も原作から離れるようにして、自分のエピソードの奥の奥まで書くようにして、“やっとできた!”という段階のものを聴いてもらった」(小渕)
デモがあがり、小渕のプライベートスタジオで試聴会が開かれた。一番前の席で聴いていた敬さんに小渕が聞いた。
「吉田さん、どうですか?」
振り返った敬さんは、涙を流していたという。コブクロの曲を聴いて二度目の涙はヒットを確信した涙だったのかもしれない。
しかし、敬さんは突然、歌詞が書かれた紙に、ここは小渕、ここは黒田という風に歌のパート割りについて、自分のアイデアを記入し始めたという。
「こんなこと言う人おる? そしたらミノスケ社長も“そうやな。俺も吉田社長と同じや。そう思う!”って」(黒田)
「蕾(つぼみ)」はコブクロ史上最大のヒットシングル曲となり、アルバム『5296』は、180万枚のセールスを記録した。「蕾(つぼみ)」がリリースされた2007年はワーナーミュージック・ジャパン史上最大級の忙しさとなった年で、敬さんの号令の元、各自持ち場で全力を尽くしたが、そのクライマックスがコブクロの日本レコード大賞受賞だったように思う。スタッフ総出で、アーティストの稼働をサポートし、達成感と高揚感を味わうことができた。
「あの時、レコ大の舞台にあがって、後ろに両社長(敬さんとミノスケ社長)がいて。これはすごい舞台だったなと今でも思います。後からその映像を見たら、吉田社長がほんまに嬉しそうな顔をしてて。吉田社長があの時の僕らの一発目のNOで引いていたら、その光景も全部なくなってしまっていると思うと、この絵まで吉田社長は描けていたんだなと」(黒田)
「蕾(つぼみ)」以降も、小渕のプライベートスタジオでの試聴会はシングルをリリースする度に行われ、それが恒例となった。
「最初がこれだったので。曲を変えられることに対して複雑な思いもあったんですけど、変わって良くなることに対する喜びというか、一緒に作っているという感覚もありました。試聴会というハードルを作ってくれて、吉田社長に苦しめられて育った僕らの力みたいなものが、今でも体中に根づいていると思います」(小渕)
「僕らのことを絶対に売るっていう、あの人の責任感。あの時の曲の作り方って、吉田社長独特の感性というか。ただの剛腕でなく『蕾(つぼみ)』を聴いてぽろっと泣いたりして。ドライな東京のヒット請負人みたいなイメージだったんですけど、でもそうじゃなくてほんまコブクロのことを“ええ”と思いながらやってくれてたんやなって『蕾(つぼみ)』のときに、そう思ったんですよ」(黒田)
「あの時のことを振り返ると時代が確実に動いた」
その後も、いろんな局面で敬さんとコブクロの2人との交流は続いていった。今から13年前の気持ち悪いぐらい澄んだ秋の青空の日を迎えるまで。
訃報が届いたのは、宮崎へのライブのため羽田空港から飛行機に乗る直前だった。保安検査場を越えたところで、電話をとったマネージャーが、全然戻ってこない。血相を変えて走って戻ってきた、その口から聞かされたという。
「衝撃度合いはハンパなかった。結局、そこから一回バランスを崩してしまった。僕らは、片翼の飛行機になってしまったんですよね」(小渕)
敬さんが、最後に決めたドラマ主題歌「流星」(フジテレビ系月曜9時『流れ星』(主演:竹野内豊)のプロモーションを終え、翌年シングル2曲をリリースした後のツアーの最終日のアンコールで、小渕の声が出なくなった。コブクロは、ブレイクしてから初めての活動休止期間を迎えることとなった。
「正直、辛い記憶の方がまだ強くて」
黒田は、声を絞り出すように敬さんへの想いを語ってくれた。
「あの時のことを振り返ると、時代が確実に動いたじゃないですか。吉田社長を筆頭に、こちら側に時代が引き寄せられていくのを目の当たりにして。僕ら自身もその中心にいた。いろんな偶然とそれを引き寄せるアイデアと、それを絶対逃さないという行動と信念というか。いろんな要素がかみ合わないと、あんなことって起きへんねんなと。今思えば全部吉田社長の正解だったんですよ。だから紆余曲折もありましたけどJ-POPの厳しさ、好きなことだけやって売れると思うなよ、お前らJ-POPなめんなよって教えてくれた。吉田社長が亡くなったというところにまだ触れられへん。亡くなって以降、どこか箱の中にしまっていることの方が多かったんですけど、すごく大事なものがその箱に詰まっていると実感しました」
小渕の想いも同じだ。
「あの時に、あれだけ僕らに“越えてこい! 超えてこい!”ってハードルを課してくれて。僕は負けたくなかったし、悔しくてしょうがなかった。ビジネス的ではなく、その場限りでもない。“もっと良くなる! もっとこい! もっとこい!”って育てられたなと思いますね。音楽を作ること、そして音楽を届けること。今喋っていても、あの時に得たブレない何かを感じることができる。出口の太さや細さは違うかもしれないけど、僕らは太くい続けようと、25年歌い続けることができた。そしてあの時作られた曲が25周年のツアーでも求められて、僕らも歌いたいし、会場が沸くという、その事実が全てを物語っているんだと思います」
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