King Gnu、なぜ歌詞で“他の誰にもなれない”と歌うのか? 「白日」「SPECIALZ」……言葉の根底に潜む諦めと肯定を紐解く
しかし、バンドの歌詞に描かれる表現の興味深さはそんな印象を携える一方で、ここまでの文脈をすべてひっくり返してしまう描写をも、度々楽曲に用いる点にある。それが表出しているのが、直近作も含むこれらの楽曲群だ。
「三文小説」
〈そのままの君で良いんだよ〉
「SPECIALZ」
〈“WE R SPECIAL”/あなたはそのままで〉
「硝子窓」
〈あなたはわたしで/いびつそのままで〉
「三文小説」「SPECIALZ」は、“君”や“あなた”と言いつつも、そこにある肯定は、本来肯定されるべきでない何かを抱える他者に向けられている。文脈として先述した“自己に対してネガティブなマインドを持つ他者”への肯定と読み解いても違和感のないなか、最新曲「硝子窓」でその意図は明確なものとなった。“いびつ”であるネガティブを抱えてなお、それでも相対する“あなた”と同時に、自己となる“わたし”をもこの歌詞で肯定したのである。
自己への肯定をポジティブとするならば、ネガティブである自己への“諦め”とは、本来たしかに対を成す概念かもしれない。しかし、この相反するふたつが両立する点こそ、King Gnuの歌詞表現を考えるなかで最も注視するべきポイントだと思う。
憧れたものにはなれなかった。けれど、そんな不出来な自分のままでもいい。――この価値観は心理学の分野で、「適応的諦観」と呼ばれる立派な自己受容のひとつの形である。こうしたラベリングが存在するということは、つまりこの道を歩んできた人間の数が決して少ないものではないということだ。自らのネガティブな側面をも、良い意味で諦め、受容してきた人々。彼らにとって、King Gnuの歌詞で描かれる諦観は、共鳴や共感を呼ぶものとして、あるいは今まさに自己へのネガティブな自意識に苦しむ人にとっては、至らない自分をも掬い上げてくれる救済として響く。そんな名もなき人々の感情の渦こそが、バンドのあとを追従するヌーの群れに宿る熱狂の本質なのかもしれない。
諦めを携え、自己のアイデンティティを受け入れ肯定するという、King Gnuの楽曲の歌詞から浮かび上がる適応的諦観。本稿の最後に、この価値観は以前より常田が謳っていた、バンドの活動原点にも通ずる一面があることを指摘しておく。
King Gnu活動当初、彼らは一貫して以下のコンセプトを掲げていた。「ジャパンメイドのバンドとして、日本の音楽・J-POPをやる」――。常田自身もルーツをクラシックに持ち、バンドの改名前後には『SXSW』への出演やアメリカでのツアーを経験している。世界の音楽のバックグラウンドを知るバンドが放つその言葉の頼もしさ。そして言葉の通り、今まさに日本の音楽カルチャーを背負っているその事実の重みたるや。
シーン最前線を牽引するに相応しい役者と言っても過言ではないバンド・King Gnuが掲げる矜持。それが血の通う誇りとして輝くのは、歌詞に描かれる適応的諦観をバックボーンとした、彼らの一本気で筋の通った活動が今日まで積み重なっているからなのだろう。
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