世良公則、新たなスタートラインとなったデビュー45周年記念コンサート 若き日のロックミュージシャンとしての夢も語る
世良公則のデビュー45周年記念コンサート『DOORS ヨロコビノトビラ』が11月20日午後6時30分よりWOWOWで放送される。
1977年に世良公則&ツイストとして「あんたのバラード」でデビュー。本格的なロックサウンドとハスキーなボーカル、ド派手なステージアクションでその後の日本のロックに大きな影響を与えた世良公則。ソロアーティストとしても精力的な活動を続け、今年は桑田佳祐feat.佐野元春,世良公則,Char,野口五郎による「時代遅れのRock’n’Roll Band」に参加したことも話題となった。
9月24日に東京・ヒューリックホール東京で行われた45周年記念コンサートには、ツイスト時代からの盟友である神本宗幸(Pf)、『新世紀エヴァンゲリオン』の劇中音楽も手掛けたことでも知られるNAOTO(Vn)が参加。さらにスペシャルゲストとして俳優の佐藤浩市を迎え、スペシャルなステージが繰り広げられた。
リアルサウンドでは、世良公則にインタビュー。45周年ライブを軸に、これまでのキャリアについてじっくりと話を聞いた。(森朋之)
一日一日、自分が積み重ねてきたものを見せられた
——11月20日にWOWOWでデビュー45周年記念コンサート『DOORS ヨロコビノトビラ』が放送されます。9月24日に行われた公演ですが、世良さんにとってはどんなステージでしたか?
世良公則(以下、世良):楽しかったですね。“45周年”と銘打っていますが、限りのある曲数のなかで、一日一日、自分が積み重ねてきたものをいい形で見せられたのかなと。
——世良さんのアコギと歌によって、キャリアを代表する楽曲を堪能できるライブだったと思います。アコースティック編成にしたのはどうしてなんですか?
世良:その話はおそらく、45年を振り返ることになるかもしれないですね。僕がデビューした1970年代の終わり頃、メジャーのシーンにおいてロックミュージックは当たり前の音楽ではなかったんです。テレビに出ても“場違いなヤツらがいる”という雰囲気だったし、ロックミュージシャンからも「テレビに出るなんてロックじゃないよ」と思われていたところがあって。どちらからも冷めた目で見られていたし、俺たちとしては「目先の1年をどう戦うか?」という状況だった。燃え尽きてもいい、とにかくがむしゃらにやるしかない、と。
——先が見えない状態で走っていた、と。
世良:ええ。当時、40才以上のロックミュージシャンはいなかったんですよ。宇崎竜童さん、矢沢永吉さんも30代前半でしたし、ギタリストの井上堯之さんも40代の手前。自分たちも先のことは全く見えてませんでした。それが変わってきたのは、30代の終わりごろ。スタッフと「キャリアを終えるとき、“どういう人だったと言われたいか?”という話になったときに、「“あいつはちょっといいミュージシャンだったよね”と言われるのが俺の夢かな」と答えたんです。当時はホーンセクションやコーラスもいる大所帯のバンドでコンサートをやっていたんですが、その時を境に“一人で何がやれるか、もう1回、自分の音楽を見つめ直すべきだ”と。そこからですね、ギター1本でやるようになったのは。その頃は俳優もやらせてもらっていて、賞をいただいたこともあったんですが、しばらく映像作品に出ないことも条件にさせてもらいました。資金力的には弊害があるだろうけど、とにかく音楽をしっかりやろうと。
——なるほど。世良さんにとっても転機の時期だったんですね。
世良:そうですね。まずはギター1本と歌。それをしっかりやったうえで、たとえばジャズギタリストの渡辺香津美さん、ベーシストの櫻井哲夫さんなど、ジャンルを超えていろんな方とセッションを重ねて。その頃からようやく、何年か先を見通しながら活動できるようになったんです。“今よりももっと良くなりたい”という思いで日々を重ねながら、50代、60代をミュージシャンとして過ごして。なので45周年のライブも、まずは一人きりでライブをはじめたんですよ。さらに神本宗幸さん、NAOTOさんに加わってもらい、佐藤浩市さんにも登場していただいた。最後はギター1本で歌いましたが、これまでに積み重ねてきたものを出せたと思いますし、アコースティックを選んだのは正解でしたね。
——今回のライブでは世良公則&ツイストの「あんたのバラード」「銃爪」「燃えろいい女」なども披露されました。
世良:いちばん感じたのは、「今のほうが合ってるな」ということですね。佐藤浩市さんに僕のデビューアルバム(『世良公則&ツイスト』/1978年)に入っている曲(「酒事」)を歌っていただいたんですが、それもすごくよくて。当時よりも、自分の歌詞を背負えているというのかな。デビューした頃の気迫、気概もいいと思うんだけど、ようやく自分が歌詞に追いついてきた気がするんですよ。
——どの楽曲も日本のロックが広く聴かれるようになった大きなきっかけになっていると思いますが、そのことについてはどう捉えていますか?
世良:先ほども言いましたが、70年代後半、ロックはぜんぜん浸透していなかったし、ましてテレビに出るロックバンドなんてまったくいなかった。当時、僕はこんなふうに考えていました。甲子園を目指してがんばってる野球少年は町のヒーローで、みんなが応援してくれる。だったらエレキギターを持った少年が日本武道館を目指してもいいじゃないか、と。実際は楽器を持っているだけで、警察官に「君、どこの高校?」と呼び止められるような時代だったんですけどね(笑)。大学で大阪に出た後、ライブハウスで「武道館でやりたい」「オリコンの左ページ(50位以内)に載りたい」なんて言ってたら、先輩のバンドマンに「夢は夢、理想は理想だ」と笑われたこともありました。
——テレビ番組に積極的に出演されたのも、夢を叶えるために必要だったと。
世良:それもありましたね。フラワー・トラベリン・バンド、サンハウスなど、日本にも素晴らしいロックバンドはいたんですが、誰もが知っているメジャーな存在ではなかったし、テレビに出ることはほとんどなかった。でも、僕が初めて動いてるジミヘンを見たのはブラウン管のなかだったし、ミック・ジャガーのスカーフの色、ロッド・スチュワートの白いマイクスタンドを見たのもテレビだったんですよ。だったら自分たちもそこに出ていくべきだろうと。ツイストをテレビで見たことをきっかけに、エレキを弾く若者が増えるかもしれない、そんなことも思っていました。今評価されるよりも、10年後にどこかのスタジオで、俺の前に立った若者が「僕がロックを始めたのは、ツイストをコピーしたのがきっかけです」と言ってくれる。当時は妄想に過ぎなかったけど、もしそうなったら、俺たちがやってる意味もあるだろうなと。
——その後、ロックは市民権を得て、日本の音楽シーンに根づきました。“妄想”が現実になったわけですね。
世良:そうですね。40周年のコンサートに参加してくれた斉藤和義君、吉川晃司君も、小中学生くらいの頃にツイストをテレビで見ていた世代。今は上だと70代の大先輩、下は10代のプロもいて、7つの世代でセッションできますからね。それは本当にすごいことだし、70年代の終わりにはまったく想像していませんでした。
——世良さんの音楽の根底にはブルースが流れていると思います。世良さんにとってブルースは、どんな音楽なんでしょうか?
世良:ロックミュージックの基本はおそらく、カントリーかブルースですからね。僕が最初に聴いたロックは、ラジオから聞こえてきたThe Rolling Stonesの「Paint It Black」だったんです。当時のラジオは“電リク”(リスナーの電話リクエスト)の時代で、和洋折衷、いろんな曲が流れていて。美空ひばりさんの曲や「黒ネコのタンゴ」のあとにLed Zeppelinがかかったり。特に「Paint It Black(黒くぬれ!)」にはすごく衝撃を受けて、その後、The Rolling Stonesのカバーを中心にしたバンドをはじめました。最初、僕はベーシストだったんですが、大阪に出た後、ブルースをやってた先輩に「ストーンズをやるんだったら、ブルースを聴かないと、あのグルーヴは出ないよ」と言われたんです。YouTubeもない時代なので、頼れるのは音楽専門雑誌だったんですが、キース・リチャーズのインタビューを読むと「ツアー中、ホテルの部屋ではずっとブルースを聴いてる」と話していて。そこからメンバー全員でブルースを聴き始めたんですよね。14才くらいから20才くらいまではThe Rolling Stonesとブルースばかり演っていたし、その匂いは今も残ってるんだと思います。