「日本(語)のうたを考える」第2回

連載「日本(語)のうたを考える」 第2回:阿久悠、なかにし礼らの時代に“問題化”した七五調

 日本の近代詩史をひもとけば、明治に入って五七・七五調の音数律以外のあらたな韻律を試みる新体詩が実践されたものの、結局はそうした韻律を放棄した口語による自由詩がヘゲモニーを握るようになっていった。しかし、七五調は歌謡曲(あるいはそこに広く芸能を含めてもよいが)の領域で独特のかたちで残存し続けていた、と言える。「おそらく、歌謡詞の九五%以上が、七・五の形式を踏んでいるといってまちがいでないと思う」(『作詞入門』、pp.29-30)という阿久の書きぶりはやや「盛っている」印象があるものの、仮想敵にしうるだけの存在感があったことは確かだろう。

 しかし、当然のことながら、音数律としての七五調が内在するリズムと、音楽的リズムはかならずしも一致するものではない。七五調で詞を書いたからといって、メロディが七五調的なリズムを持つとは限らないからだ。

 たとえば民族音楽学者の小泉文夫が残したリズム研究、とりわけわらべ唄研究で注目されるのは、まさにそうした音数律=言語的リズムと音楽的リズムの関係であって、そこから「歌詞の配分」のようなアイデアが導かれてくる。つまり音楽的リズムに対して日本語の拍がどのように割り振られるか、ということだ。(注4)その集大成であり、しかし未完となった『日本伝統音楽の研究』のリズム論は示唆に富む。ここでその議論に深入りすることはしないが、次のような指摘はあえて引用する価値があるだろう。

 言葉と、言葉以前にあるこうした拍節法とは、このように相互に深く影響しあいながら、わらべ唄のリズムを規定していくわけである。しかし、わらべ唄における拍節法は、すでに見て来た通り、2拍子の単純なものであるから、実際のわらべ唄で特に問題になるのは、むしろ言葉それ自体のリズムであるかのように見える場合が多く、われわれは、言葉以前の拍節法の存在を忘れがちになるのである。(『合本 日本伝統音楽の研究』、音楽之友社、2009年、p.263)

 わらべ唄というきわめて素朴な歌においてもすでに、言語の外にある音楽的リズムがあらかじめ存在している。しかし、そのあらわれがあまりに素朴であるがゆえに、日本語の音韻構造がもたらすリズムと音楽的リズムが同一視されるような取り違えが起こってしまう。七五調に音楽的な面で優位があるとすれば、わらべ唄から伝統芸能まで豊富な音楽的語彙の蓄積を援用可能である点に尽きるだろう。そもそもから、七五調が本質的に音楽的、ということはまったくない。

 七五調の「問題」化は、したがって、こうした歴史的・伝統的な負荷との決別という性格を帯びる。ではなぜ阿久やなかにしの時代に「問題」化したのか。阿久となかにしという二人の作詞家からもっと視野を広げて、1960年代から70年代にかけての歌謡曲をめぐる状況を一度俯瞰してみよう。

 歌謡曲というものは(ひいてはフォーク、ロック、そしてJ-POPにいたっても)、大瀧詠一の「分母分子論」をひくまでもなく、外来の音楽と日本語の折衷の場だった。特定のディケイドをあまりに特権化することは控えたいが、とはいえ1960年代はカバー・ポップスの全盛からはじまり、ベンチャーズ人気やビートルズ旋風を経て、エレキ、フォーク、グループ・サウンズのブームなどによって大きな変化を迎えた時代だったことに違いはない。音楽面ではエイトビートのリズムを基調とする「ビート革命」(高護『歌謡曲ーー時代を彩った歌たち』、岩波新書、2011年の第1章4節「ビート革命とアレンジ革命」を参照)が訪れ、リズムも言葉も大きな変化に晒された。加えて、先に述べたように、作詞家・作曲家の専属制度が崩れ、フリーの作家が台頭し始めた時代でもある。

 高護の整理によれば、「カヴァー・ポップスの成立に漣健児は唯一不可欠な存在だったが、カヴァー・ポップスによって拓かれた8ビートの音楽をオリジナルのメロディーとして成立させたのは中村八大と宮川泰で、日本語の歌詞を構築したのは永六輔と岩谷時子である。」(前掲書、第一章の「一九六〇年代概説」より。Kindle位置No.247。)という。手元の歌本(注5)を紐解いて、1960年代に入ってなお七五調が優勢であるなかで音数律の面で異彩を放つのは、じっさい、浜口庫之助、永六輔、岩谷時子、安井かずみといった面々の詞(訳詞を含む)だ。(注6)

 たとえば永六輔と中村八大のコンビによる代表曲、坂本九「上を向いて歩こう」(1961年)や、あるいは岩谷時子による加山雄三「君といつまでも」(1965年)、「お嫁においで」(1966年)といったヒット曲は七五調のような調子とは無縁だ。音読してみても、七五調にととのえられた音に否が応でも感じてしまうある種のリズムの引力は感じられない。伝統や慣習といった不必要な重荷をおろした言葉がかろやかなリズムにのせて歌われるさまは、いかにも「新しさ」に満ちていただろう。

 かと思えば、あっという間に時代はシンガーソングライターやロックバンドのものになっていく。吉田拓郎に象徴されるように、フォーク系のシンガーソングライターは積極的に「字余り」を活用して日本語詞のリズムを限りなく口語化し、他方でロックバンドは日本語の発音をあえて歪めて歌ったり、16ビートまでを視野に入れた日本語の譜割りを追究して新しいリズムを探し求めた。こうしたフォークとロック、そしてポップスを貫く新しいうたのリズムの探究の到達点として、サザンオールスターズの桑田佳祐が登場することになる。(注7)

 こうした激動のなかにあれば、七五調が「問題」としてある作詞家たち(すくなくとも阿久となかにし)のあいだに浮上するのも理解できる。また、状況論的に言えば、止むことのない激動におしながされるようにして、この「問題」はなし崩しに乗り越えられていったようにも思える。ただ、ここではもう少し立ち止まって、七五調がうたに対してどのような効果を持ってきたか、そしてそれを乗り越えるとはどういうことかを、いくつかのケーススタディから考察してみたい。(つづく)

注1:青空文庫で閲覧が可能になっており、本稿でもそちらを参照している。https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/card2843.html

注2:とはいえ、ここで「謡いもの」と萩原が呼んでいるものは、日本の伝統音楽の分類においては「謡いもの」に対比される「語りもの」である。音楽と文学との中間的な領域をざっくりとそう呼んでいるだけで、厳密な用語法ではない。

注3:さらに萩原は論を進めて、音数律をふくむリズミカルな「韻律」を避け、メロディになぞらえうる「音律」を日本語による自由詩の美的規範として提案する。こうした反復するリズムの軽快さを避ける意識が、短歌や俳句のような定型詩にも見いだされると指摘する者もある。

注4:わらべ唄研究というと、ここで取り上げている歌謡曲とは縁遠いように思われるかもしれないが、小泉が手掛けた歌謡曲研究においてはわらべ唄研究に基礎づけられた音階構造やリズムの類型が分析の重要なツールとなっている。

注5:平凡出版株式会社が創立30周年を記念して出版した、平凡たっしゃ会・編、佐野数定・監修『平凡の歌本 日本のヒット歌謡1000曲集』(1975年、平凡出版、非売品)

注6:作詞家としての活動以前にバンドマンやマネージャーとしてキャリアのある浜口や岩谷は、永、阿久、なかにし、安井よりも一回り以上年長。しかし、1960年代に注目を浴び評価が高まった同時代人である。浜口はもともと日本コロムビア専属だったが、1960年代初頭のいわゆるクラウン騒動の前後に独立しており、立場としてはフリーランスだ。また、高が指摘するように、こうした動向の先駆ないし同伴者として、漣健児の功績を見逃すことはできない。いずれまた紙幅を割いて言及することになるだろう。

注7:村田久夫・小島智編『日本のポピュラー史を語る : 時代を映した51人の証言』(シンコー・ミュージック、1991年)には、アーティストや作詞家、作曲家、ラジオパーソナリティなどの関係者51人の談話が集められている。そのなかで、こと日本語とポップミュージックの関係性を語るうえで象徴的に言及されるのはダントツで桑田佳祐だ。また、佐藤良明『ニッポンのうたはどう変わったか [増補改訂]J-POP進化論』(2019年、平凡社ライブラリー。1999年の『J-POP進化論――「ヨサホイ節」から「Automatic」へ』を大幅に増補改訂したもの)においても、サザンオールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバッド」が集中的に言及され、言外に70年代における日本語によるロックの完成形として提示されている。pp.222-224を参照。

■imdkm
1989年生まれ。山形県出身。ライター、批評家。ダンスミュージックを愛好し制作もする立場から、現代のポップミュージックについて考察する。著書に『リズムから考えるJ-POP史』(blueprint、2019年)。ウェブサイト:imdkm.com

連載「日本(語)のうたを考える」バックナンバー

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