GRAPEVINE「ねずみ浄土」レビュー:不安や苦悩が渦巻く“割り切れない現実”に巡らす思い

 GRAPEVINEが5月26日にリリース予定の17thアルバム『新しい果実』の先行配信シングルとして、新曲「ねずみ浄土」を配信した。

 先月リリースした「Gifted」が1分もの長いイントロから始まる曲だったのと対照的に、「ねずみ浄土」はいきなりファルセットのボーカルで始まる。ブルージーで幻想的なサウンドはこの世にあらぬ世界の音のようだが、それはタイトルとは裏腹に、浄土とは程遠い世界を描いているのである。

GRAPEVINE – ねずみ浄土(Official Music Video)

 ファルセット・ボイスやシンプルな演奏の基本構造はGRAPEVINEのベースであるソウル、R&Bに通じるもののようだが、グルーブを削ぎ落としたサウンドは硬直した空気を想像させる。間奏は彼ららしい緊張感のある演奏で惹きつけ曲の構造もA/B/A/B/C/A/B’と簡潔ながら、ライブで大いに盛り上がる曲とも思えずシングル向きとも言い難い。だが、この曲を今シングルとする意味がGRAPEVINEには確かにあるはずだ。

 歌い出しの歌詞はこの世ではない。旧約聖書ではアダムとイブが果実を口にしたところといえばエデンの園で、そこから原罪を背負った人間の歴史は始まったとされている。そのアダムとイブが新しい果実を食べたとなれば、また人間は罪を背負ってしまったのか、と思う。そこからさらに連想を広げれば、私はビリー・ホリデイが歌った「奇妙な果実」を思い浮かべた。残虐な人種差別を生々しく歌ったこの曲は昨年来のBLM運動で再注目されている。聖書が記された時代から人間は何をしてきたのだろう。

 曲の後半では唐突に日本昔ばなしのねずみが登場する。アダムとイブは禁断の果実を口にしたことを神に問われて互いに罪をなすりつけ合う。日本人ならよく知っている「おむすびころりん」は、餅つきをしているねずみの穴に落ち込んだ爺が正直に答えたら宝をもらい、真似した嘘つき爺は罰を受ける話だ。正直さの判断を下すのが、ねずみなのが面白く、この話は嘘をつくのは人間だけという暗喩とも捉えられる。不誠実だったアダムとイブが背負ったのがキリスト教で言うオリジナルシンーーいわゆる原罪だが、時代も国も宗教観も違う両者を〈私は正直でしたか〉という一節で結びつける歌詞に、ぞくりとする。

 次のバースがこの曲の芯かもしれない。〈新たな普通〉すなわち「ニュー・ノーマル」とはリーマンショック後の経済学で使われ始めた言葉だが、新型コロナ禍によって変化せざるを得ない日常において提案されたライフスタイルも意味するようになった。ここでふと前半の歌詞にある〈まずはプレイ/誰だってビギナーからのスタート〉という一節を振り返りたくなる。そうだ、やらなくてはと誰もがマスク着用に手洗い励行、ソーシャルディスタンスにリモートワークなど、まるで新しいゲームに加わるように夢中で実践してきた。だが、そのために仕事を失う人や学べない子供達など次々に問題も生じて山積状態だ。よく例えで用いられる「歯車が狂った」とか「ボタンの掛け違い」といった単純なことではなく、余儀無く起こった停滞からジワジワと生まれた不安が今の私たちを取り巻いている。