「メイキング・オブ・モンパルナス1934」特別編

村井邦彦×吉田俊宏 対談:アルファミュージックの原点を語る

1969年のパリで受けた衝撃

吉田:今や日本だけでなく、海外にも当時のアルファの音楽をむさぼるように聴いている若者が増えているそうです。今の我々がフルトヴェングラーの音は凄いと言っているような感覚で、彼らは細野さんとかユーミンの音に触れているわけですよね。

村井:本当にそうですね。

吉田:そういう意味でも、アルファは歴史をつくった存在だといえますね。話は戻りますけど、エディ・バークレイのところに行ったのは、キャンティの川添浩史さんがバークレイと知り合いだったからですよね?

村井:そうです。事の起こりは、加橋かつみがザ・タイガースを抜けて今後どうしようかっていうときに、加橋をかわいがっていた川添さんが「いっそ、フランスのレコード会社の専属になったらどうだ」と言いだした。それで加橋は川添さんの口利きでバークレイ・レコードと契約したわけです。川添さんは息子の象ちゃんに「おまえ、加橋のレコードを作ってこい」と指令を出して、加橋と象ちゃんがパリに行ったんですよ。1969年5月ごろかな。

吉田:村井さんは最初から一緒に行ったわけではないのですね?

村井:うん。国際電話で象ちゃんと話したら「クニは加橋に曲も書いているし、面白いからパリに来ないか?」って言うんですよ。それで、すぐパリに飛んで行ったわけ。他の仕事を放りだして2カ月くらいパリにいたかな。面白くて、面白くて、仕方がないくらい面白かったからね。もちろん、加橋のレコーディングに立ち会ったり、曲を書いたりもするんですけど、バークレイ・レコードやバークレイの音楽出版部門の人たちとも仲良くなって、とにかくワイワイやっていたんです。あのときレコーディングしたスタジオには24チャンネルのレコーダーがあったんですよ。

吉田:へえー、日本では4チャンネルとか、せいぜい6チャンネルくらいの時代ですよね。

村井:そうそう、ビクターが6チャンネル、テイチクは4チャンネルだったかな。そんな感じでした。だから欧米の最先端を目の当たりにして衝撃を受けるわけですよ。それで出版部門のヘッドだったジルベール・マルアニと仲良くなって「バークレイ出版が著作権を持っている曲の中に、日本のサブ・パブリッシャーが決まっていない曲がたくさんあるから、気に入った曲を持っていっていいよ」と言われたわけです。1曲100ドルくらいだったかな。うんと安かった(笑)。さっき言った通り、そのうちの1つが「マイ・ウェイ」だった。

吉田:凄い話ですねえ。そういえば1969年のパリというと68年の翌年ですから、五月危機(5月革命、パリの学生運動を契機にフランス全土に広がった社会変革運動)の名残が相当あった時期でしょうね。

村井:あ、凄かったですよ。実際に68年はなんとかド・ゴール大統領で切り抜けたんですけど、69年になって国民投票をやったんですね。それでド・ゴールが僅差で敗れてね、69年にもう引退しちゃうんですよ。だから僕たちがパリにいた5月くらいにはド・ゴールを支持する年を取った人たちと、支持しない若い人たちのデモが両方で行われているわけ。

吉田:凄い時期にパリにいたんですねえ。

村井:うん。若い人たちはサンジェルマン・デ・プレの方でデモをやり、ド・ゴール支持の人たちはシャンゼリゼ通りをバーッと行進するんですよ。そういえばサンジェルマン付近で学生と警官隊が追っかけっこをしていたな。夜中にレストランから出ると、目の前を3人くらいの学生がダダダダって走っていったりしてね。

吉田:まるで映画のようですが、それが当時のリアルなパリだったわけですね。

村井:サンジェルマンのうんと細い裏通りにキャステルというディスコティークがあって、映画『男と女』の音楽を手がけたフランシス・レイとか、ピエール・バルー、まだ学生だったファッションデザイナーの高田賢三とかね、そういう人たちが出入りしていたんです。僕も毎晩のように象ちゃんや加橋と一緒に出かけていました。1階と2階で食事ができて、地下がディスコティークになっていたんです。食事をすませてディスコに行くと、ピエールとかケンゾーといった連中が踊っているんですよ。店から20メートルほどでフール通りに出るのですが、学生が石畳を掘り起こして警官隊に投げた5月革命の最初の頃の激戦地なんです。ただでさえ刺激的なパリという街で、そんな刺激的な出来事が起きていたから、余計に面白いと感じたのでしょうね。

1968年5月。左がフール通り、右がサンジェルマン通り。フール通り左側3番目の建物の手前を左折するとすぐ左にキャステルがあった。

吉田:アルファにはノンポリ(ノンポリティカル、政治運動に無関心)のイメージがありましたが、1960年代に起きた世界的な社会変革の空気を大きく吸い込んでいたんですね。

村井:そうですね。赤軍派が出てきたり、1970年には三島由紀夫さんの割腹事件もあったりして、僕たちはイデオロギーこそ問題にしていなかったけれど、自由を求めていたんですよ。川添浩史さんたちの影響もあったかもしれませんね。フランスで若い時期を過ごした大人たちです。川添さんが亡くなった後、タンタン(川添夫人の梶子)から紹介してもらった古垣鐵郎さん(駐仏大使、NHK会長などを歴任)もそうです。もっと女性に社会的な立場を与えなければいけないとか、もっとリベラルな考え方をしなくては……というのは、川添さんや古垣さんから学んだことですね。

吉田:イデオロギーというよりは……。

村井:そう。人間というのは、もっと自由で、もっと解放されなければいけない……という考え方でしたね。

吉田:実際、村井さんはアルファの社内で積極的に女性を登用されたんですよね。

村井:そうですね。力のある人にはどんどんやってもらおうっていうのが基本的な考えでした。

吉田:アルファは音楽的にも、社風の面でも、自由、解放を目指していたのですね。「川添イズム」みたいなリベラルな精神がアルファに注入されていたということになりますか。

村井:そうですよ、おっしゃる通りです。それから川添さんは若者を大事にしたね。昔の大人はなかなか若者を相手にしてくれなかったんだよね。若い人たちは若い人たちだけで何かやっていて、大人は大人だけでやっているような状態でね。ところが川添さんは、若くても、物を知らなくても、大人と付き合って大人から吸収したいという意欲を持つ若い人をどんどん自分の懐に入れていったんですよ。

吉田:村井さんもその中にいたわけですね。

村井:そうです。僕はその恩恵を受けたと自覚しています。それでね、川添さんはキャンティをつくった理由として、こう言っているんです。「大人の心を持った子どもと、子どもの心を持った大人が一緒に遊べる場所をつくりたかった」

吉田:いい言葉ですね。今はそういう場所はなかなかありません。やはり若い人は若い人同士、大人は大人同士で終始してしまっている気がします。

村井:川添さんはフランスのリベラリズムみたいな考えを持っていたんだろうな。例えば、フランスに行くでしょ。リュックサックを背負ってヒッチハイクをしている若者を道端で見つけると、すぐに乗せてあげちゃうわけ(笑)。当時、ヒッチハイクを装った強盗みたいな事件もあったから、みんな「やめた方がいいよ」「危険な場合もあるんだから」って注意するんだけど、全く言うことを聞かないんです(笑)。若い人が困っているんだから、助けてあげなきゃ……っていうタイプの人でした。

吉田:なかなかできないことですよね。村井さんが山上さんとアルファミュージックを旗揚げしたときは「海外に音楽を発信する」「国際的なビジネスをやる」という目標を掲げていたのですよね。それもやはり川添さんの影響でしょうか?

村井:うん。まさに、それが川添さんのやってきたことですからね。川添の象ちゃんがフラメンコギターの名手になって帰国して、フラメンコ舞踊団を率いて全国公演をしたんですけど、その公演をオーガナイズしたのが川添さんで、僕はアルバイトみたいな立場でその手伝いをさせてもらった。以来、ずっと川添さんのそばにいたんですよ。その間、川添さんのかかわったプロジェクトで僕が観たのは、まず日生劇場で開かれた『ウエスト・サイド物語』の公演。あれはニューヨークのオリジナルを招聘したんです。それから僕は現場には行っていませんけど、文楽の海外公演をプロデュースしたり、ロックミュージカル『ヘアー』を手がけたり、大阪万博の富士グループ・パビリオンの総合プロデューサーを務めたり……。

吉田:川添さんの一連の国際的な仕事を間近で見てきたわけですね。

村井:まさにそうです。プロセスをずっと横で見てきた。それで自分も外国から何かを引っ張ってくるだけではなく、日本の文化を海外に持っていくような仕事がしたいと考えるようになっていったんですよ。

関連記事