村井邦彦×川添象郎「メイキング・オブ・モンパルナス1934」対談 第2弾
ラスベガスのディナーショーでステージ・マネージャーに
村井:そのフィリピン・フェスティバルっていうのは出演者が80人くらいのビッグショーだよね。
川添:そう、すごいスペクタクルなんだ。だから舞台で滝は流れるわ、花火は上がるわ。
村井:リド(パリのキャバレー)のショーみたいな感じ?
川添:まさにあんな感じだね。ショーの分類でいうと、いわゆるスペクタクルレビューだろうな。20~30人くらいの生のオーケストラが入って、ストリングスも入っていて……。
村井:観客はどれくらい入るの?
川添:500人は軽くいけるだろうな。要するにラスベガスのディナーショーだよ。一晩に2回やった記憶もあるな。
村井:フィリピン・フェスティバルの公演時間はどれくらい?
川添:2時間半くらいかな。内容はフィリピンの歌を中心に、いろいろ組み上げて。まあ、アメリカ人があんまり分からないだろうっていう選曲をしたんだと思うんだけど、メキシコの歌が入ってきたり、スペイン語の歌が入ってきたりしていたな。
村井:あのころ「ダヒル・サヨ」っていうフィリピンの歌が日本でもはやったよね。
川添:そんなのも入っているし、そうかと思えばメキシコの歌なんかも入っていたりするの。フィリピンはスペインに占領された時代が長かったからね。
村井:そうだよ。スペインが持っていたのをアメリカがとっちゃったんだ。
川添:そうそう。フィリピンの人たちにとっては迷惑な話だよね。
村井:フィリピンの歌手は当然、出てくるんだよね?
川添:いっぱい出てくる。でも、アメリカ人は一切出てこない。日本人は出ていたな。日本人のストリッパーが日劇から駆り出されて8人くらい出ていたの。当時のラスベガスのショーだからセミヌードがないとお客さんが納得しないじゃない? ところがフィリピンはキリスト教、特に厳格なカトリックの国だから、フィリピンの人はセミヌードにはなれないんだ。それで代わりに日本からダンサーを8人ほど連れていったわけよ。俺は日本人で、通訳もできるから、ちょうどいいってことでさ。ストリッパーのお姉さんたちにはかわいがってもらったよ。みんなすごく気のいい人たちだった。
村井:あははは、象ちゃんらしいねえ。そのショーのプロデューサーがスティーブ・パーカーだったわけだね。ほかに演出家とか音楽監督とか照明とかはいたの?
川添:演出家はまた別にいたよ。スティーブはプロデューサーだから、そういうスタッフも全部彼がキャスティングしていたんだ。だから最も偉いのはスティーブなんだけど、演出家とか舞台監督や衣装は、別のアメリカ人だったな。あんまりよく覚えていないけど、ラスベガスに到着して、1カ月ぐらいでオープンしたんだ。出演者はラスベガスに来る前にフィリピンでさんざんリハーサルしてきた感じだった。歌い手もダンサーたちもみんな達者だったし、アメリカ人にとってはエキゾチックで楽しいショーだったんじゃないかな。それが相当にヒットして、当初は2~3カ月の予定だったのが、1年くらいやっていたんだよ。
村井:象ちゃんもその1年、ずっとそこに張り付いていたわけ?
川添:そうだよ。最初は舞台監督の助手の助手から始まって、次は助手に格上げになって、最後には舞台監督と同じポジションになっちゃってさ。それで舞台監督のユニオンのライセンスを取って、アメリカで舞台監督としていつでも仕事できるようになったのよ。
村井:ええーっ、それはたいしたもんだねえ。
川添:えへへ。日本人では初めてじゃないの?
村井:それは初めてだろうねえ。ラスベガスに限らず、アメリカのそういうレビューで、ちゃんと舞台監督を務めた日本人は象ちゃんが初代なんじゃないかな。
川添:たぶん、そうだろうね。ステージ・マネージャーっていう肩書でさ、これがすごく偉いんだ(笑)。ユニオンの規定があってね、ステージ・マネージャーがキューを出さないと一切動かないの。
村井:現場の親分だ。
川添:うん、まさに親分だね。例えば主演の人間でも45分前までにはステージに入っていなきゃいけないという規定があったけど、仮に遅刻したとするじゃない? するとステージ・マネージャーの一存で「今日はお前、出なくていい」とか「1週間、クビ」とか言えるの。代役は必ずいるからね。主役をスパッと交代させてしまえるくらいの権限があるわけよ。その代わりステージ・マネージャーがきっかけを出さないとステージが一切動かない。だから5秒前くらいに「5 seconds」とかいって、インカムで指令を出すわけよ。後は舞台の袖からずっと観ているんだ。今みたいに舞台を映すモニター画面があるような時代じゃないから、直接観てキューを出すんだよ。
村井:へえー、面白いねえ。
川添:そうすると滝が流れたり、舞台転換されたり、花火が上がったりするわけ。だから、すごく緊張感のある商売だよ。
村井:そりゃそうだ、指揮者と一緒だもんね。全部覚えていないといけない。
川添:そうそう。俺の記憶ではキューを出すポイントが500前後はあったね。それを俺は20歳で動かしていたわけよ。すごいもんだと思わない?
村井:たいしたもんだねえ。
川添:思い返すとゾッとするよ、よくやったよねえ(笑)。そうそう、俺が真剣にキューを出そうとしていると、日本人のストリッパーのお姉さんがからかって、いろんなところを触ってくるんだよ。「おい、よせよせ」みたいな感じで(笑)。懐かしい青春の思い出だね。
村井:はっはっは。それで、象ちゃんはどこで寝泊まりしていたの? そのザ・デューンズというホテル?
川添:いやいや、アシスタント・ステージ・マネージャーのアメリカ人の青年がいてさ、そいつと一緒に、近くに家を借りていたんだよ。食事はその青年の奥さんが作ってくれたりしたから、あんまり自分で作った記憶はないね。まあ、若いから何を食ってもうまいんだよ。
村井:1960年のラスベガスはどんな街だったの。まだ西部の砂漠に忽然と現れる、みたいな感じだったんじゃない?
川添:そうそう、まさにそう。メインストリートに主要なホテルが7つくらいあるだけだった。俺が仕事をしていたデューンズとか、スターダストとか、サンズとか。サンズはフランク・シナトラなんかが歌ったホテルだね。ほかにトロピカーナってホテルがあったかな。
村井:リビエラはあった?
川添:あった、あった。できたばかりだったよ。
村井:有名なギャングのバグジー(ベンジャミン・シーゲル)がつくったのはどれだっけ?
川添:フラミンゴだったかな。
村井:まだシーザーズ・パレスはなかったんだね。
川添:ないない。そうだ、ラスベガスではなんと俺、エルヴィス・プレスリーに会っているんだよ。
村井:へえー。ラスベガスでショーをやっていたの?
川添:いや、違うね。遊びに来ていたらしいよ。当時からラスベガスに興味があったんじゃないかな。スティーブ・パーカーとシャーリー・マクレーンと一緒にデューンズに行ったら、ロビーの向こうからボディーガードみたいな屈強な男を連れた爽やかな青年がやってきて、シャーリーにすごく丁寧に挨拶してくるわけ。よく見たらプレスリーなんだよ。
村井:どんな服装だった?
川添:カジュアルなジャケットを着ていたけれど、とにかく態度は丁寧だったな。「How do you do,Sir ?」みたいな感じで全部にサーをつけてさ、えらい行儀のいい青年だった。俺は「あっ、生のプレスリーだ」と思って「サインちょうだいよ」って言ったら喜んですぐにサインしてくれた。それを弟の光郎に送ったんだけど、失くしちゃったみたい。
村井:ははは。のんきないい時代だったね。象ちゃんはラスベガスに行った後、いったん日本には帰ってきたの?
川添:いや、帰ってないよ。ラスベガスのショーを1年やって、ステージ・マネージャーに昇格していたから、結構お金を貯められたんだ。それを持ってニューヨーク行くことにしたわけ。親父(川添浩史)に連絡を取って、ニューヨークに行きたいって言ったら「いいじゃないか。行け、行け、行ってこい」って言われてね。
村井:すごいねえ。自活能力があるねえ。
川添:そうでしょ。自分でも感心しちゃうけどさ、よくやったと思うよ。そういえばラスベガスが終わってから、ニューヨークに行く前、親父の知り合いの映画プロデューサーの家に1カ月ぐらい居候させてもらったんだ。ロサンゼルスのビバリーヒルズにあるユージーン・フランキーっていう人の家だった。
村井:ユージーン・フランキーって、日本によく来ていた人じゃない? 名前だけはすごく覚えているよ。
川添:いたいた、よく日本にいたよ。親父の友達で、キャンティにもしょっちゅう来ていたな。