村井邦彦×細野晴臣「メイキング・オブ・モンパルナス1934」対談

当時抱いていた海外文化への憧れ

村井:僕は今、75歳なんだけれど、細野君はいくつになったの?

細野:73ですよ。だから2つしか違わない。村井さんは早生まれだから学年は3つ上かな。とにかく、あんまり変わっていないから、信じられないんですけど(笑)。村井さんは高校生の頃から、そういう大人の世界に触れてましたよね。あの当時はすごく面白い人がいっぱいいたでしょう。そういう人たちの影響は、村井さんにとって大きいんですね。

村井:そうですね。僕がいつも謎に思っていたことがあるんだ。戦争が終わった瞬間にアメリカ文化がどっと入ってきて、戦前の日本人は悪いことをしてきたとか、日本は暗かったとか言われることが多いけれど、僕の周りにいた大人たちは戦前から戦後にかけても生き生きとしていたんだよね。今回のプロジェクトでは、戦前から戦後まで流れる日本の歴史の知られざる一端を示せればと思っているんだ。

細野:それはみんなが知りたいことですね。戦後の日本のカルチャーの中心は、そこにあったわけですから。

村井:そうなんですよ。僕も細野君も同じような感じだと思うんだけど、僕の場合はジャズが好きでさ。そのジャズは、僕の父親世代の大正デモクラシーの人たちから受け継いできてるわけだよね。実際にジャズが禁止された時代もあったんだけど、みんな隠れてジャズをやったりしていたみたいで(笑)。戦前から戦後にかけて、ちゃんと流れは続いていたと思うんだ。

細野:僕もそう思います。でも、最近はそういう流れがあったということが、もう消えかかっていますよね。日本の音楽界でも、世代が入れ替わっていって、そういう流れがあったことは忘れられつつある。だから、僕にとってキャンティの存在は大事なものだったんだなって、最近ますます思うようになりました。当時抱いていた海外文化への憧れとか、大切ですよね。

村井:うん。コロナの状況で人と人が接触できないと、そういう文化の交流も生まれにくいし、本当に辛いよね。

細野:そうそう。ますます分断されていきますよね。

村井:細野君は昨年、ソロでアメリカ公演をやったでしょう。その時、英語で「自分が物心ついた頃にはもう進駐軍というのがいて、FENっていう在日アメリカ軍向けのラジオ放送があって、そこでアメリカ音楽を流していた」と話したじゃない。もともとはどういう音楽から興味を持ったの?

細野:僕が3歳ぐらいの頃には、もう家にSP盤がありました。浪曲とかいろいろな音楽があったんです。その中で3歳児が自分で選んだ音楽がジャズなんですよ。ブギウギとかね。ディズニーアニメの音楽もありました。自分で選んで踊っていましたね。たぶんベニー・グッドマンか何かでしょうね。

村井:そのあたりは同じだね。僕もベニー・グッドマンが最初でした。でも、そこから僕はジャズオーケストラに行っちゃったんだけれど、あなたはもっとロックとかに傾倒していったんだよね。

細野:そうですね、ロック世代になっちゃいました。そこに当時の2、3歳の年の差が出ていると思います。受ける影響は少し違いますよね。

村井:そうかもしれないね。

外国から見た日本の面白さ

ド・ゴールやウィンザー公との交流が描かれた、古垣鐵郎の著作『心に生きる人びと』(朝日新聞社)

細野:今回の村井さんの本には、僕も知らないすごい人がたくさん出てくるみたいですね。古垣鐵郎さんとか。

村井:古垣さんはずっとアルファレコードの顧問をやってくれていた人だね。どんな人かというと、鹿児島出身で、第一高等学校を出てからフランスのリヨン大学法学部に留学して、22歳くらいでジュネーブの国際連盟事務局情報部に就職するんだよ。朝日新聞社に引き抜かれて欧州局長をやり、戦後はNHKの会長や駐フランス大使を歴任したんだ。元イギリス国王のウインザー公やフランスのド・ゴール大統領と深く付き合ったりして、いろいろなことをされていました。戦争の時代に生きた人なのに、すごいリベラリストで、よく生き抜くことができたと思うほどなんだ。

細野:なるほど。戦後はそういう人たちが元気だったんですね。

村井:そうだね。僕なんかはベニー・グッドマンに憧れて、クラリネットを学校で貸してくれるっていうからブラスバンドに入ったんだよね。

細野:序文を読ませてもらったら、サックスを吹いていたって書いてあってびっくりしましたけど。

村井:そうなんだよ。最初はベニー・グッドマンの真似でクラリネット、その次がチャーリー・パーカーの真似でサックスを吹いていた。でも、僕はああいうのを吹いていると鼻がフガフガになっちゃうの(笑)。だからピアノに転向したんだよね。アマチュアとして外国の音楽の真似をしているときはいいんだけれど、実際にそれを自分の職業にすると、果たしてこれでいいのかなって思うこともあった。細野君はそういうことを感じたりはする?

細野:同じですよ。悩みながらやってますね。

村井:細野君は沖縄やインドに行って影響を受けたり、中国風になっていったりした時期もあるけれど、やっぱりそういう活動にはルーツ探しみたいな心境があったの?

細野:結局、はっぴいえんどのときに一番強く思ったのが、面白い音楽を作るには自分の足元を見ないとダメだということなんです。当時のメンバーはただ海外の音楽をコピーするだけでは面白くないと思って、自分たちのオリジナリティーとは何だろうと考えていたんですね。松本隆という文学青年がいたので、日本語とか日本の文化や文学を掘り下げてみようとしたわけです。音楽的には日本の音楽に全然影響されていないけれど、その分、言葉で攻めたんです。

村井:そのあたりはポイントだね。その後に沖縄やインドに興味を持った理由は?

細野:外国から見た日本がすごく面白かったんですよ。マーティン・デニーの音楽へのアプローチが好きになって、発想が逆転したというか。マーティン・デニーは日本の音楽をエキゾチックなものとしてとらえていましたからね。東京に馴染んじゃうと見えにくいんですけど、例えば『八十日間世界一周』に出てくる横浜の景色とか、外から見るとへんてこりんで面白いんだなと。それを屈辱と受け取る日本人もいたけど、僕はそこに高揚感を感じていました。自由でいいなと。例えばインド人にエキゾチックだと思う国はどこだと聞いてみると、日本だと言うんです。場所によって見方が変わるんですね。それで世界の音楽にもすごく興味を持ちました。YMOはマーティン・デニーの影響で始まりましたね。

村井:そうだったんだね。あなたがクラウンでマーティン・デニー風のレコードを作っている頃に、僕はアメリカのA&Mレコードと契約したんだ。ジェリー・モスを筆頭にA&Mの幹部連中がアルファレコードのスタジオAにやって来て、僕がプレゼンテーションをしたんですよ。そこであなたの『泰安洋行』をかけて「今度、このアルバムを作ったハリー・ホソノがアルファと契約するよ」って伝えたら、ジェリーは微笑んでいた。これは面白いことをやる人だと思ったんじゃないかな。

細野:それは知らなかったな。冷や冷やするわ(笑)。

村井:そのプレゼンテーションがみんな印象に残ったみたいで、ジェリーたちは「ハリーはどうするんだ?」ってよく言っていたよ。

細野:嬉しい。それは嬉しいですね。

村井:それで「俺たちは外国で売れるレコードを作ろう」と思ってYMOが始まったんだよね。

細野:そうですね。日本では珍しい現象でした。きっと村井さんが珍しい存在だったんですね。

村井:いや、あなたも珍しい(笑)。

細野:じゃあ、珍しい人が集まったんですね(笑)。

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