横浜銀蝿、復活インタビュー 40周年へのチャレンジとチームのスピリッツを大いに語る

横浜銀蝿、40周年へのチャレンジ

ドカンに革ジャンが正装みたいなものだった

ーーもともとは、バイクや車で走っているのが楽しかったみなさんが、音楽の道に進んだのは?

TAKU:当時の空気って言うか、車で走りながら聴く時の、仲間内の雰囲気に似合う音楽がないねって。じゃあなければ作ればいいじゃんって感じ。

翔:俺たちが車で聴く時をイメージして、じゃあテンポはこうでと言いながら作っていった覚えがありますね。「格好いいなあ~」って言いながら、自分たちで作ったデモテープをずっと、「これが売れない訳がない」ってバカみたいに言ってました。

ーー楽器は、それぞれでやっていたんですか?

翔:車やバイクの前に、影響を受けたのが音楽ですから。俺は、中2の時にチャック・ベリーに影響されて、すぐエレキギターが欲しくなって。それまでは吉田拓郎さんなどのフォークを聴いていたんです。中2の時に洋楽好きの友だちと出会って、ストーンズ(The Rolling Stones)とかレコードをたくさん聴かせてくれた中にチャック・ベリーがあって。それから50年代のロックンロールを聴くようになって、高校で出会ったのがJohnnyだった。

Johnny:俺が、こういうロックンロールのバンドをやりたいと思ったきっかけは、キャロルでした。テレビでたまたま観て、格好いいなと思って。もちろん俺もその前は、フォークを聴いたりしていたけど。

翔:今も覚えてるよ。高校に入ってすぐ、Johnnyが俺の前に座って自分のことを「Johnnyって呼んでくれ」って言ったんです。普通は仲良くなってからあだ名が付いたりするじゃない? それなのに初対面でいきなり「俺、Johnny。バンドやらない?」って。

Johnny:よく覚えてないけど(笑)。

翔:言ったんだよ。それで好きな音楽の話をして、バンドを組んで学園祭でやろうって。それまで学校は面白くなかったけど、自分のことをJohnnyって名乗るやつが現れて、これは面白いことになるなって思ったよね。それでメンバーを集めたんだけど、ドラムのやつが「ジャズをやりたい」って言い始めて抜けて、そこで嵐さんが入って……。

ーーその時は何て言うバンド名だったんですか?

翔:ただの“銀蝿”でした。

ーーでも、すでに銀蝿だった。

翔:俺とJohnnyが、嵐さんがバイト長をしていた店でバイトしてて、いつも休憩中に騒いでいたから、マスターから「お前らうるさいな。銀蝿みてえだな」って言われて。嵐さんが「それ格好いいじゃん」って気に入って、翌日にはもうステッカーまで作ってました。

ーーTAKUさんは、どのタイミングで入ったんですか?

翔:その後、俺と嵐さんとJohnnyで事務所のオーディションを受けたんだけど、嵐さんだけが受かって俺らは落っこちて。それで嵐さんは、他のメンバーを探して……。

TAKU:3人は横浜だけど俺だけ地元が東京で、矢沢永吉さんの『成りあがり』という自叙伝を読んで、俺も成りあがりたいと思っていたんです。それで『Player』という雑誌にメンバー募集を出したら、嵐さんがそれを見つけて連絡をくれて。それで“キャッシュ”というバンドを組んで。

嵐:お金が好きだから(笑)。

TAKU:で、キャッシュでフジテレビの特番に出られることになったんだけど、直前でバンドが解散してしまって。でもそのチャンスを逃したくないということで、翔くんとJohnnyを迎えて、そこで初めて4人が揃って、銀蝿から横浜銀蝿になった。

ーーリーゼントにサングラス、革ジャンにドカンというファッションは、その時から?

翔:その時も何も、当時は普段からドカンにTシャツ、女もののサンダル履きでバイクや車に乗るのが普通だったから。衣装とかの以前に、ドカンに革ジャンが正装みたいなものだったんです(笑)。そうしたら事務所の社長が、「365日その格好でいられるのか?」って言うわけですよ。もちろん「いられます」って言ったんだけど……。バイクや車に乗ってる時は良いけど、電車に乗る時もあの格好だから、ジロジロ見られて。

ーー電車で騒がれたりしなかったんですか?

Johnny:本物だとは思われてなかったです。似てる人だとか、今で言うコスプレじゃないかと思われて。

翔:でも社長との約束は、最後まで守りました。

TAKU:夜もサングラスしなくちゃいけないのは、さすがにきつかったけど。

Johnny:信じられないかもしれないけど、横浜銀蝿として活動した3年3カ月の間、メンバーと社長、担当ディレクター以外の人の前では、絶対にサングラスをはずさなかったです。近いスタッフにも、素顔を見せたことがなかった。

翔:ちょっと秘密めいているとか、どこか見えないところがあるほうが、男も女も魅力的じゃないですか。音楽もそうで、生活感が出たほうがいい場合もあればそうじゃないものもあるんです。

ーー当時は、『歌のトップテン』、『ザ・ベストテン』、『夜のヒットスタジオ』など歌番組によく出ていましたね。全部生放送で、曲やアーティストのイメージで、いろんなセットを作っていて。銀蝿さんは、金網が多くなかったですか?

翔:工事現場の赤いコーン、金網とかブロック塀とか。

TAKU:ガテン系だった(笑)。

翔:俺らだけ扱いが、ちょっと雑だったかも(笑)。アイドルの女の子なんか、スタジオをドライアイスが埋め尽くす中で歌って、間奏でドライアイスが吹き飛ぶと一面チューリップだったり。でも俺らは、スタジオの隅っこに工事現場でした。

TAKU:今思い出したけど、Johnnyがソロで「$百萬BABY」を歌った時は、ドライアイスや電飾を使ったりしていたよね。扱いが雑だったのは、Johnny以外の俺らに対してだったんだよ(笑)。

Johnny:覚えてない(笑)。

翔:でも『ザ・ベストテン』とかに何度も出ていると、美術の親方とも仲良くなって。ああいう人たちもガテン系だし、俺らはこう見えてマジメに音楽をやってたから、気に入ってくれて。「翔ちゃん、今日のセットどうだった?」とか、声をかけてくれるわけ。ある時「来週は金をかけるから楽しみにしてろよ」って言われて楽しみにしていたら、間奏にメンバーの顔が貼り付けられた蝿の人形が下りてきて。「美術のオヤジ、ふざけんなよ!」って心で叫びました。

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