伊福部昭は、なぜ「ゴジラのテーマ」を生み出せたのか? ハリウッド版最新作を機に考える
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019年)は、幼少の頃から『ゴジラ』シリーズを愛してやまないマイケル・ドハティ監督による“怪獣愛の結晶”とも言える作品だ。
世界を破壊せんと暴れ回る怪獣たち――ゴジラ、ラドン、モスラ、キングギドラの神々しさと禍々しさをより高めているのが、劇中で流れる伊福部昭によるオリジナルスコア「ゴジラのテーマ」をアレンジした「Godzilla Main Title」、「Old Rivals」にあることは間違いない。
ドハティ監督の10年来の友人であり、ともに『ゴジラ』シリーズを愛する音楽家のベア・マクレアリーは、伊福部音楽を大編成のオーケストラで演奏するだけでなく、そこに25人もの太鼓奏者の掛け声や僧侶の読経などを加えてアレンジしてみせた。ただのテーマソングではなく、劇伴音楽としても絶大な効果を発揮したと言えるだろう。
そもそも、伊福部音楽は『ゴジラ』(1954年)から連綿と作られてきた数々のゴジラ映画を重厚に彩ってきた。庵野秀明監督『シン・ゴジラ』(2016年)では、「ゴジラ」や「宇宙大戦争」など数々の伊福部音楽がオリジナルのまま使用されて、観客を熱狂させたのは記憶に新しい。ドハティ監督は、ゴジラと伊福部昭の音楽は決して切り離してはならないものだと明言している。
伊福部昭による怪獣映画のための音楽からは、怪獣の持つ巨大さ、迫力、恐怖、高揚感、怒り、悲しみ、さらに怪獣が生まれた土地の歴史や文化、宗教まで感じることができる。では、伊福部昭はなぜこのような音楽を生み出すことができたのか? 伊福部昭とは何者なのだろうか? そんなテーマに駆け足ながら迫ってみたい。
ルーツと向き合った独自の伊福部音楽
伊福部昭は1914年、北海道釧路町(現・釧路市)で生まれた。10代の頃から独学で作曲を始め、21歳のときに管弦楽曲「日本狂詩曲」で世界的な評価を受ける。それ以降、数多くの管弦楽曲、バレエ音楽、歌曲、室内・器楽曲を作曲。また、東京音楽学校(現・東京藝術大学)では黛敏郎、芥川也寸志らを教え、後に東京音楽大学で学長を務めた。
終戦を経て、戦後は映画音楽の分野でも活躍。三船敏郎のデビュー作『銀嶺の果て』(1947)を皮切りに、『ゴジラ』シリーズ、『座頭市』シリーズなど300本以上の音楽を手がけた。まさに日本を代表する作曲家だ。代表作の一つ「シンフォニア・タプカーラ」の一部が緊急地震速報のチャイムの元になったというエピソードもよく知られている(制作したのは甥で東大名誉教授の伊福部達)。
伊福部音楽は「民族主義的」と表現されることが多い。西洋的な三和音の響きからの脱却、シンプルなモチーフの反復、リズムの重視、民族的な旋法の使用などが特徴として挙げられる。伊福部は作曲を始めた頃から「人種が違うと音楽がここまで違うのだから何を考えるにしても人種をベースにすべきなのではないか」と考えていたという。伊福部が追求したのはナショナリズムとしての民族主義ではなく、土俗的、民俗的な民族主義であることを付け加えておきたい。
伊福部昭のルーツとして欠かせないのは、アイヌの人々の交流である。幼い頃、父親が北海道十勝地方の音更村の村長だったため、アイヌ集落の行事にもよく出かけ、その中で「ユーカラ」という神様をたたえるお祈りや行事の音楽、遊びの音楽などを聴いていたという。先述の「シンフォニア・タプカーラ」もアイヌの人々への共感が元になって書かれたものだ(「タプカーラ」はアイヌ語で「立って踊る」という意味)。
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の中でのゴジラは、かつて神として人々に崇められていたというバックグラウンドを持つ。ドハティ監督は、ゴジラの曲について「そのころ(数千年前)に作られた音楽だと感じさせたかった」と発言しているが、縄文文化を色濃く残すアイヌの人々たちとの交流をルーツに持つ伊福部音楽はうってつけだったと言えるだろう。
もう一つのルーツは、2000年以上続く伊福部家の歴史だ。もともとは日本書紀にも登場する因幡(鳥取)の豪族であり、その後、大和朝廷に従って神社の神官として仕えてきたが徐々に権力を失い、明治維新の際に北海道に移住した。伊福部家では家系について繰り返し話されていたという。伊福部達は「日本的な感性や普遍的なもの」にこだわっていた叔父の作曲の発想の原点が、こうした伊福部家の永い歴史の教えと関係しているのではないかと記している。
作曲家の大友良英は、伊福部昭について「のしのしと、まさにゴジラのように、オーケストラを使っていながら、まったく西洋の音楽と似ても似つかないものを作っている」と表現する。伊福部自身は自ら記したエッセイの中でムーアの「芸術が最後に万国的になる為には、最初、地方的でなくてはならぬ」という一文を引用している。伊福部音楽は、自身のルーツに向き合った末に生まれた独特のものだったのだ。